大阪留学の記 3

 大阪留学についての記述を、ほぼおわりかけていたところで1分ほどの停電があり
まして、ネット上に保存するにいたっていなかったので、すべてふいになりました。
不注意で消してしまったなんていう記述を、ほかの方のブログで見ましたときは、
お気の毒と思っていましたが、今の小生がそうであります。( まくらのところが、
適切でなかったのかもしれないので、あれを保存させないようにするためのはかり
ごとであるでしょうか。今も外は強風のようでして、またいつ停電が発生するのか
わかりません。くわばら、くわばら。)
 昨日に続いて、昭和30年代にNHK大阪放送局でアナウンサーをしておられた小沢
義則さん(作家 小沢信男さんのお兄様です。)の自分史から、話題をいただきます。
30年代の大阪は、どのような文化状況にあったかです。次の記録は昭和35年のこと
とあります。
「 ラジオの朝8時台に『朝の訪問」という長寿番組があった。遅い勤めの人はこれを
聴いてから家を出る。十五分のインタビュー番組でアナウンサーが話題の人を訪ねて
話を伺う。芥川賞直木賞の受賞者は当然対象になった。
 この年の直木賞(昭和34年下半期)は司馬遼太郎の『梟の城
 大阪市内の高層マンションに住んでいた司馬さんを早速訪問した。この受賞後サン
ケイ新聞をやめ文筆一本に専念するのだが、当時奥さんも同じ記者だったので不在。
仮住まいといった感じで、一人ポツンと座っていた。録音の中で印象に残っている
ことは、記者生活のこと。サンケイの前にいた京都新聞の時代から大学や寺院を取材
することも多かったが、一息つくと広い芝生に寝転がって居眠りしていたという。
おそらく瞑想に耽り、小説の構想も練り上げていたのであろう。
・・・ 受賞後の訪問は当たり前かな。次はイッパツ受賞直後の人を狙ってみようと
話し合い、黒岩重吾に的を絞った。当時、東京の山谷とならぶ大阪の西成を舞台に、
熱っぽい作品を発表していた。
 収録は、株に失敗したなどの苦労話から関西文壇人としての意欲などと話が進んで
いったが、私も引き込まれ『来年、直木賞取りますよ』と発言してしまった。・・
 そして安保闘争に揺れる夏がきた。翌年、黒岩さんは『背徳のメス』で直木賞
(三十五年下半期)を受賞した。」
 関西文壇人ということばの重みは今と比較になりませんですね。今よりも質も量も
豊富であった文学関係者でありましたが、そのなかでも関西には人材が多く集まって
いたということが伺えます。
 司馬遼太郎黒岩重吾ともに、作家活動の最後まで大阪をはなれずにやっておられた
大物でありました。