大阪留学の記 2

 永六輔さんは、上方芸能を学ぶために、大阪に住まいを移して留学したと書いて
います。( 山川静夫「綱太夫の四季」岩波現代文庫の解説)
 これは昭和30年代のことで松下電器や三洋電器などが大阪から高度成長の波に
のって全国企業となっていった時代でありました。大阪は経済と文化の両方で日本を
リードしていたことになります。
 山川静夫さんの大阪勤務も、昭和30年代のことでした。 
フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』から山川静夫さんの大阪時代の
ところをコピーして以下に貼付けます。
大阪放送局勤務時代(1959−65)、当時朝日座といった文楽劇場へ通いつめ、
文楽を筆頭に、歌舞伎、新国劇などの古典芸能に通暁しており、その時親しんだ
八代目竹本綱大夫の評伝『綱大夫四季』は名著だが、当時、その著者がNHK
アナウンサーと同名異人だという人もいたほどで、その後も多数の古典芸能に関する
著書があり、一級の古典芸能評論家といえるが、語り口の柔らかさのためか、未だ
アナウンサーのイメージから世間が抜け出していない。」

 今でしたら、そんなに古典芸能が好きであれば、フリーになって専念してはどうか
と嫌みの一つもいわれ、会社が居心地がよくなければ、飛び出してしまいかねない
ところですが、よくぞ、組織との折り合いをつけたものと、山川静夫さんの処し方に
拍手をおくるものです。
 昨年に小沢信男さんから、小沢さん兄上の「自分史と句歌集」をあわせた本を、
兄からみた自分のこともかかれているので参考にといって送っていただきました。

 小沢義則「句歌集 椰子日陰 自分史風に」 西田書店
 小生は、このかたのことはまったく存じ上げていなかったのですが、この文集を
拝見しますとNHKアナウンサーをやっていらしたとありました。NHKでは放送局
勤務をへて、最後は新人アナウンサーの研修担当であったとあります。どこかで、
このかたの放送を聞いているのかもしれませんが、名前には聞き覚えがありません
でした。
 このかたも、30年代の大阪に留学をしていたとあります。昭和31年から39
年まで大阪放送局(BK)に勤務していました。56年から64年までのことですから、
これは山川さんとほとんど重なることになります。約10歳 山川さんよりも年長で
ありますので、交流はあったと考えるのが自然でしょうか。
 この小沢さんの自分史の部分には、いい時代の大阪のことが描かれています。
「昭和31年にJOBKに転勤してくるまで、関西についての予備知識はあまり
なかった。『転勤したら、その土地に惚れ込みなさい』と言われたり言ったりして
きたが、これは転勤族の特権だと思って、その土地の人になりきることだ。おかげで
関西は私にとって第二の故郷である。
 経済活動や歴史・人情ばかりでない。NHK自体、JOAKに次ぐ中央局であるBKには、
AKなにものぞという気概があった。アナウンサーにも記者にも、そして製作陣には
私は貝になりたい』の岡本愛彦や、和田勉たちがいた。」
 これを読むだけでも、ずいぶんと元気な様子がうかがえることです。