旧かなのたのしみ

 小生のブログで引用したりしているのに、そのことをすっかり忘れているという
ことが、よくあります。忘れてもいいためにメモしているのだといい訳をするので
ありますが、読んだ片端から、記するやいなや忘れてしまうのでした。
 小生は、まだ旧かなで本がたくさんでていた時代に育っていますので、旧字旧かなで
記することはできませんが、読むには不自由(?)がありません。
拙ブログで旧かなの作家をとりあげたのは、武藤康史さんの「文学鶴亀」を手にした
ことによりますが、この武藤さんが旧かなにはまったのは、高校生のときに谷崎潤一郎
全集を読んだせいとあります。旧かなになる谷崎全集は、ページを開いたときに、
目に飛び込んでくる漢字に訴える力があって、ルビなどがふられていると視覚を
楽しませて、文字を読むより前に目で楽しんでいることを実感します。
最近の文章は、漢字がすくなくなっていますし、複雑な形の漢字を使わなくなって
いることから、目を楽しませることが少ないようです。
 最近に購入した平凡社新書の「白川静」(松岡正剛著)には、白川さんの持論が
わかりやすく記されていますが、そこには以下のようにあります。
「漢字は、今日のわれわれが失ったかもしれない多くの記憶をよみがえらせる『時の
方舟』だろうといっているわけです。漢字はまさに四角い方舟の姿をした『意味の船』
たちなのです。その一字一字が古代の呼吸であり、古代の観念であり、古代の一挙手
一投足なのです。」
 このようにあるのを見ますと、旧字旧かなの小説を、無理に新字新かなに直すという
のは、ひどく野蛮なことのように思えてしまいます。
 せっかくのこと、最近手にしている谷崎全集の「蓼食う虫」を、全集に収録されて
いるままに旧字旧かなで貼付けてみたいと思うのですが、普通のワープロでは旧字
変換がされないので、誠に残念ながら貼付けることができないのでありました。
なんとか、引用できるところで、雰囲気を伝えることにいたしましょう。

「 しかしかう云ふ南國的な海邊の町の趣は、決して關東の田舎にはない。さう云へば
いつぞや常陸の國の平潟の港に遊んだ時、入り江を包む兩方の山の出鼻に燈籠があって
岸にはずっと遊女の家がならんでゐたのを、いかにも昔の船着場らしい感じだと
思ったことがあるのは、彼れ此れ二十年も前だったらうか。が、平潟の廢頽的なのに
比べたら、こゝはさすがに晴れやかで、享樂的である。」(「蓼食う虫」全集105p)