「本の背表紙」2

 昨日に続いて長谷川郁夫さんの「本の背表紙」からであります。
 この本を見ていましたら、平凡社からでた「藝文往来」を開いてみたく
なるのでした。「本の背表紙」と「藝文往来」はあわせて読まれるべき
ものであるように思います。

 昨日に話題とした篠田一士さんと森亮さんについての文章は、この
『藝文往来」にもあるのです。この文章の一部については、以前に小生の
ブログですこしふれたのですが、そのときに引用していないくだりを本日は
紹介することにいたします。
 本日の主人公は、篠田一士さんのほうであります。
 小沢書店では、篠田さんのものを積極的に出版していて、篠田さんの著作集を
出してくれるのは、小沢書店以外には考えることができないと思っていたので
ありますが、残念なことに、小沢書店は経営難に陥り、出版が出来ない状況と
なるのでした。それまでに刊行した篠田さんの本には、次のようなものが
ありました。
・ 「バンドウシアの泉」(外国文学論集) 
・ 「創造の現場から」(文芸時評) 
・ 「現代詩大要」
・ 「邯鄲にて」
・ 「詩的言語」
・ 「現代イギリス文学」
・ 「篠田一士評論集」(遺稿集) 

「 まるで、(篠田さんは)文藝小出版の守護神役を買ってでてくれたと
 いった具合だった。しかし、外国文学についてはすでに権威者のように
 見えた、この博識無比の批評家がなぜあれ程の信頼を私どもに寄せてくれ
 たのか、いいかえて、かわいがってくれたのか、じつはいまもって判らない
 思いでいるのである。恩知らずといわれても仕方がない。・・・
  あの旧制高校礼賛は、師・森亮を慕う気持の現れだったと推察する。
 酔えば、岐阜から東に詩人は生まれない、などど暴言を吐く、稚気愛すべき
 人柄。回想のなかで巨漢は、アイスクリームを何杯も平らげたという、稽古
 帰りの柔道少年へと回帰していくようだ。・・・
  篠田さんこそ、文学のアマトールであり、グルメであった、と私は思う。
 無私の人であった、といいたいのである。
  毎年、元旦には『夜明け前』を繙くと語られた。文学の初心に還るという
 ことだろう。これも清々しい言葉として、いまに懐かしい。」