二つの時代を生きる3

 そのむかし戦前の優等生たちは、まずは陸軍や海軍の学校への進学を勧められた
ようです。うんと古くは、大杉栄が幼年学校生徒ですし、加賀乙彦も幼年学校の
生徒で終戦を迎えたはずで、そん時のことを「帰らざる夏」という作品にして
います。幼年学校というのは、エリート軍人の純粋培養を目指してつくった学校で
ありますが、ここに在籍して、軍人以外の世界で有名になっている人には、どの
ような人がいるのでしょうか。
 先日の小野二郎さんは、旧制中学から海軍兵学校へ進学し、終戦後にまたが
中学に戻ったと記しましたが、そのようなコースをたどった有名人は、相当に
多そうであります。
 特に、第二次世界大戦の末期には、軍人が足りなくなったので、いっきに兵学校の
定員が増えて、あちこちから多くの学生を集めたといわれています。
そうなると意外な人までもが、ここに進むことになりました。
そうした一人に小沢昭一さんがいます。小沢昭一さんは29年(昭和4年)生まれで
ありまして、45年(昭和20年)3月に兵学校に入学をして、長崎県針尾島の分校
に入ったとありました。小野二郎さんも、長崎の兵学校でありますから、ここで
一緒となったことになります。
 小沢昭一さんが兵学校というのは、ほんとに似合わないように思いますが、小沢
さんの「せまい路地裏も淡き夢の町」(晶文社)では、次のようにいっています。

「 私ども『昭和の子供」は『お国のため、上御一人のために死ぬことこそ本望』
『武士道とは死ぬことと見つけたり』と、軍国主義の完成型で育てあげられました。
親も先生も新聞もラジオっも映画も、世の中みんなそういう考え方です。私は
”お先っ走り”で、町内の出征兵士の見送りには必ずでていくとか、母親の大切に
していた金の指輪をお国のために供出するよう説得するとか、積極的な軍国少年
ありました。
 陸軍より海軍のほうがカッコよくて好きでした。小学校の四、五、六年と受け持ち
だった先生が、海軍の出身で影響をうけ、私のクラスでは級長、副級長などと
いわず、艦長、副艦長・・と称し、放課後の掃除も海軍式の甲板掃除でした。
・・・
 中学に進んでまもなく、イタリア駐在武官だった陸軍中尉が、教練の教官として
学校に赴任してきてからは、多くの生徒がその教官に心酔し彼の周囲に集まりました。
・・・
 私のあこがれの海軍兵学校は、戦争末期、中学生の勤労動員による学力低下を防ぐ
ため、1年はやく生徒を採用して勉強させようと予科制度をもうけました。当時、
中学3年だった私は得たりや応と受験し合格します。まさに天にものぼらんばかりの
よろこびでした。」

 教育の影響力の強さには驚くばかりであります。まじめで良い子が、争うように
して、軍国少年となって、中学校は兵学校への進学人数を競ったのでありますね。
最近は、難関大学への進学数を競っているのですが、この争いも、数十年たって
振り返ってみたら、あれはなんだろうなんてことになるのでしょうか。