「エスペラント」2田中克彦

 「フィンランドのアルタイ語学者 ラムステットこそは、私のモンゴル語
 研究への若い野心を点火し、そこから私を引き離さなかった導きの星
 あった。」
  田中克彦さんは以上のように書いています。このアルタイ語学者で
 あったラムステットさんは、ロシア革命のときに独立した国家となった
フィンランドの初代日本公使として、日本に着任したのですが、彼が
エスペランティストであるということは、同好の人々には知られていたので、
彼らはラムステットさんのことを、「エスペラントに熟達した公使であると
いうことを強調した。」とあります。英語ができないせいもありまして、
「日本各地に招かれた講演は、すべてエスペラントでやり、それを各地の
エスペランティストが日本語に通訳した。」1918年くらいの話であります。
この公使さんは民俗学者でもあったので、柳田国男と交流があって、彼を
エスペラントの世界に案内し、宮沢賢治も彼の講演を聴いていると書いて
います。

 いまでも中国では、エスペラントによる国際放送があるのだそうですが、
中国はどうやら世界でも有数のエスペラント大国であるようです。
「中国のように数億の人口を擁しながら、その言語だけでなく文字が、
外国人を寄せ付けない堅固な垣根をつくっていた状況のものでは、小国
以上にエスペラントへの期待が高まっていたのも当然なことと理解できる。」

 モンゴルにおいて普及した背景についてもかかれています。
「1920年代に独立の状況をつくりだしたモンゴル人民共和国においては、
その言語は世界にはほとんど知られないのみならず、文章語印刷言語が
いまだ形成過程にあった。このような国では、エスペラントは自らの言語を
守り、そして、自らをその言語の中に閉じこめないようにという目的の
ためには、考え得るかぎりの適切で必要な言語であった。」