追悼 赤瀬川原平さん 2

 赤瀬川さんは前衛芸術家でありましたからして、常識とぶつかるのは当然のことで
ありました。それが前衛の前衛たる所以でありましょう。天下の朝日からでていた
朝日ジャーナルであっても、かまっていないというのが、70年当時の赤瀬川原平さん
でしたね。そもそも「ガロ」とか「現代の眼」が似合うのでありまして、そうした
赤瀬川さんに「朝日ジャーナル」が声をかけるというのが時代の風です。
 このあとは残念ながらお騒がせ度が低くなったように思います。常識的ではない
ものの、世間とぶつかるような表現はとらなくなったように思います。
そうして80年は、「トマソン」と路上観察になって、小説家としても成功をおさめる
のですが、「トマソン」はあまりのばかばかしさにアートを感じましたが、小説家と
しての尾辻さんにはまることはなしでした。
90年代以降は、ライカ同盟、新解さん老人力と常に話題を提供し続けましたし、
当方はその時々で楽しんだのですが、新刊がでるたびに購入するということにはなり
ませんでした。
 前衛芸術家として、年齢を重ねるというのは難しいことであります。80歳を超えて
もまだ前衛をつらぬくギューちゃんのような存在もあるのですが、これは例外の例外
的な存在でありますか。