吉野葛 8

 後藤明生さん「吉野太夫」第四章からの引用、昨日に続いてであります。
「『大谷崎』の方が、『かんじんの自天王の話のほうはあきらめてしまい、その地方
の出身者である、友だちの死んだ母親の話に熱中しはじめ』たのに対して、こちらは、
『かんじんの』吉野太夫の『史実』を何とか(ワラをも掴む気持で)探し求めている
うちに、例の西鶴の『好色一代男』の中の吉野太夫にゆき当たってしまった。」
 後藤さんが書こうと思っているのは、中山道追分宿の遊女の吉野太夫でありまして、
京都島原の名妓吉野のことではないのですが、中山道の遊女の資料がなかなか集まら
ないことから、探索の途中でよそ道に入り込んでしまうのでした。このゆるさが、
大谷崎に似ているかもというのは、後藤さんよりもさらに、道に迷うことの多い当方
を喜ばせることであります。
 第四章は書簡体で書かれているのですが、最後は、次のくだりとなりです。
「それにしても、ぼくの『吉野太夫』を、『谷崎清輝式』とは、よくまあいってくれ
たものだな。なるほど、あるいはそうかも知れない。・・・・
 ぼくは、ぼくの『吉野太夫』についての君の指摘を、ほぼ全面的に受け入れようと
思う。そしてその証拠として、この君への手紙を、目下ぼくが書きつつある『吉野
太夫』にぼく自身がつけた『吉野太夫注』ということにしようと思うのである。」
 この「吉野大夫」のあとがきには、「実はその四章に当たる部分は、『文学界』
(昭和55年七月号)に「吉野太夫・注』として発表したものである。もし入院がなけ
れば、たぶんこれは書かれなかったと思う。まさにケガの功名的産物である」とあり
です。
 やはり、谷崎清輝式「吉野太夫・注」というのは、おもしろい企みであります。