「友の会」つながり 6

 昨日に引用した津野海太郎さんの「母がこの雑誌の熱心な読者で、同じに『友の会』の
熱心な会員でもあったからだ」に関してであります。
 これに続いて、次のように書いています。
「私が『映画の友』の愛読者だったころ、月に一度くらいの割合で、十人ほどの中年女性
が昼すぎになると私の家にあつまってきた。まずかぼそい声で賛美歌をうたい、『羽仁
もと子著作集』の一節を朗読し、それからなにやらかにやら話し合いをおこなって、適当
なところでおひらきになる。母たちにかぎらず、これが『友の会』組織の最小基礎単位
ともいうべき『最寄会』の恒例のやり方だったようである。母もそうだが、仲間の女性
たちにしても、みんながみんな敬虔なキリスト教徒だったわけではない。リーダーの羽仁
もと子が明治女学院じこみの無教会派プロテスタントだったので、おそらくその文化圏で
の集会のひらき方が、そのまま読者の集まりにまでもちこまれることになったのだろ
う。」
 当方の場合は母ではなく、家人が友の会に関係していたせいもあり、友の会は生活の中
に入り込んでいましたですね。現在、家人は会は離れているのですが、友との関係はずっ
と続いています。
 会員時代には、自宅での最寄会というのがあったりで、その場にはいないものの、当方
も会のお知らせ文書の作成を請け負ったりしておりましたので、けっこう「友の会」活動
に理解のある協力者ということになっていました。
 津野海太郎さんが、「十人ほどの中年女性」と記していますのは、中学生くらいの津野
さんから見ての話でありまして、たぶんその昔でありましたら、いまよりも若い世代の
方が参加していたものと思います。家人が、この会に参加するきっかけとなったのは、
当方が結婚するにあたって仲人役をつとめていただいた上司夫人が熱心な会員であった
からでありまして、その方のすすめによったわけです。
 最寄会には、同じような年格好の子どもたちも集まり、こどもたちを遊ばせながら
会は進行していくのでした。津野さんが記していますように「かぼそい声で賛美歌」と
いうのは、信者さんがほとんどいないことと関係があるのかもしれません。
 阪田寛夫さんが描くご両親は、熱心なクリスチャンでありまして、聖歌隊に加わって
いたせいもあり、大きな声で賛美歌をうたい、阪田さんはそれが恥ずかしかったという
ようなことを書いていたように思います。津野さんがいうところの「文化圏」で思い
だしますのは、阪田寛夫さんが描く、ご両親の信仰生活のことでありました。