「図書」4月号 6

 金文京さんが「図書」4月号に掲載の文章は、「東アジアの『西廂記』」というもの
です。
 中国に「西廂記」という戯曲があるのだそうですが、その作品が、江戸時代の日本で
も読まれたということが、向島長命寺」にある「荷塘道人圭公傳碑」の文でわかると
いうのが、書き出しとなります。
「荷塘道人」というのは、「陸奥出身の僧侶で、長崎で唐話(中国語)と月琴を習い、
それを江戸に広めた人物として知られる。」のだそうです。この人が、本所近くの
自宅に有人等を招いて『西廂記』とか『琵琶記」の手ほどきをした」とあります。
 いまではほとんど知られることのない「西廂記」についての紹介がこれに続きます。
この作品は、唐の小説「鶯鶯伝」という取材した戯曲だそうです。この元になった
小説作品は、「絶世の美女は、禍いのものであり、美女に迷って国を亡ぼした帝王さえ
いた、自分には到底そのような魔物に勝てる自信がないので、情を忍んだ。」という
ことをテーマにしていますが、これがために「男の勝手な理屈を並べたものとして、
はなはだ評判が悪い」ものだそうです。
 金文京さんは、たしかにこれは身勝手ではあるが、「白楽天の『長恨歌』と比べる
とそれなりの考えがあってのこと」と記しています。
この小説から、ストリーを得た「西廂記」は、二人は別れるのではなく、ハッピー
エンドに終わる作品に変えてあるとありました。そして、「西廂記」が中国から
朝鮮、日本にどのように伝わり、ひろまっていったが紹介されます。
 中国に発の文化が朝鮮でどのように受け入れられたか、そして日本ではどうで、同じ
文化めぐりを朝鮮と日本の間での交流はあったかであります。
「十七、八世紀の日本と朝鮮は、かたや北京経由、かたや長崎を窓口とする江南経由
で、『西廂記』などの戯曲、小説趣味を共有していた。・・・
 ただし朝鮮の知識人が現地で中国の芝居を見る機会をもったのに対して、鎖国下の
日本ではそれは不可能であった。その代わりと言ってよいのが月琴であろう。月琴の
代表曲の一つである『茉莉花』は『西廂記』にちなんだものである。荷塘の奏でる
月琴による中国語の歌を聴きながら、江戸の文人たちは遙か海の彼方へと思いを
馳せたであろう。」
 スカイツリーで賑わう向島 長命寺にある荷塘道人の碑文で始まった文章は、
スカイツリーの風景で終わりますが、スカイツリー見物のついでに長命寺に立ち寄ろ
うなんて、奇特な人はいらっしゃるでしょうか。