高知つながり 4

 昨日に引用した随筆が収録された単行本「幸徳秋水の甥」が刊行されたのは、1975
(昭和50)年8月のことでした。

幸徳秋水の甥―随筆集 (1975年)

幸徳秋水の甥―随筆集 (1975年)

 故郷 土佐中村からでた一番の有名人は幸徳秋水でありましょうが、もちろん戦前に
日本においては、謀反を起こした張本人ということになります。
 上林さんは、1947(昭和22)年に「幸徳秋水の墓」という文章を発表しています。
「私は目下郷里土佐に帰省中である。先日所用があって、私の出身中学校のある中村町
(西へ二里)へ行った序に、幸徳秋水の墓を弔うて来た。秋水は同町の出生である。
 戦争が終わるまでは、幸徳秋水と言ふ名は、禁断の名であった。口にするさへ憚られ
た。従ってその墓も勿論禁断の墓であった。大っぴらに墓参りすることなど思ひも
寄らぬことであった。現に私なども、中学校を出てからずっと後まで、この町に秋水
の墓があることすら知らなかった。漸く昭和10年頃、田中貢太郎氏の書いたものに
よって、区裁判所の裏手の墓地に淋しくあることを知ったのであった。」
 年譜によりますと、この1947(昭和22)年10月の帰省は、前年5月になくなった上林
さんの奥様の納骨のためとあります。ちょうどこの頃は、スランプに陥っていて、飲酒
も過度になっていた時期だそうです。
 この地の出身者として一番の有名人のお墓でありますが、戦後まもなくの時期におい
ては、墓がどこにあるのかほとんど知られていなかったようで、墓地に入ってからも、
そこにいた人に尋ねてやっとその墓を見いだすことになります。
「秋水の墓は、いくつか並んだ幸徳家の墓にはさまって、墓石の形も別に変わりなく、
それと目立たなかった。只『幸徳秋水の墓』と認めた勢ひのいい行書体の碑銘だけが
特徴だった。才気走った書体から見て、秋水自身の筆跡ではないかと思はれた。・・
 私たち三人は、秋水の墓を弔うて町を帰りながら、秋水のことが、漱石の『それから
』や、その他文学者の書いたものに取り扱われてゐることを話合った。さういふ一世を
聳動させた激しい革命家が、この小さな町から出て、ここの墓に名も無き人の如く眠っ
てゐることを思ふと、何か不思議なやうな気がした。」
 戦前の日本において、幸徳秋水というのはとんでもない人物ということになっていた
はずです。この人物について好意的に書くというのは、長らくタブーでありました。