あれもこれも 11

 「暮しの手帖花森安治さんは、こだわりの人でありましたから、部下になった
人はたいへんであっただろうと思います。
酒井寛さんの「花森安治の仕事」の冒頭には、花森さんのプロフィールがスケッチ
手法で描かれています。
花森安治は、昭和23年の、暮しの手帖の創刊から死ぬまで、編集長だった。ひとつ
の雑誌を、三十年間、しかも自分で取材し、写真も撮り、原稿を書き、レイアウトを
し、カットも、表紙も描いてやり続けた例を、ほかに知らない。
 花森安治は、暮しの手帖に、外からの広告をいっさい載せなかった。それによって、
言論の自由な基本的な条件を確保し、発行部数九十万部の商業雑誌にしたが、なんで
もすぐまねをするマスコミ界で、それをまねたものはいない。」
 このあとには、「自分の髪にパーマをかけ、スカートをはいて銀座を歩いていた。」
という有名なエピソードなども紹介されています。
最後まで現役の編集者にこだわったのでありますからして、若い編集者には超える
ことのできない山のようなものであったのでしょう。
 「花森安治の仕事」には、「文芸春秋池島信平が、大橋に、こう言ったことが
ある。花森君は、なんでもかんでも仕事を自分でかかえているが、それではみんなが
仕事を覚えない。なにかあったとき、困るのではないか。若い人にもっと仕事をまか
せて、花森君も、ぼくみたいに外国へ行って、なにかあたらしいものを見つけてくる
とかすればいい・・。それは池島の親切な忠告だったし、大橋が気にしていたことで
もあった。
 大橋が池島の話を伝えると、花森は激怒した。ぼくは毎日、ここにいるじゃないか。
ぼくが手本だ。だから、ぼくから、なんでも取ればいいじゃないか。編集者というもの
は、それくらい欲張りじゃなければ、そだつものじゃないんだ。なにを言うか。」
 こうした上司の下で仕事を続けることはできるでしょうかね。