あれもこれも 10

 雑誌の創刊を持ちかけたのは大橋さんで、「暮しの手帖」の太い背骨をつくった
のは花森安治さんということになるのでありましょう。
ブレヒトの詩にある「提案したるは彼にして採用したるは我らなり」を地でいくよう
な話であります。
 酒井寛さんの「花森安治の仕事」には、出版計画をもちかけられた花森さんが
大橋さんに、次のように聞いたそうです。
「君は、結婚をどう考えているのか、と。大橋は、『仕事を続けたいので、結婚は
しません」と言った。花森は、約束するか、と念を押し、大橋は『はい』と答えた。」
 これに続いて「大橋たちは、戦後の働く女の第一世代だった。」とあります。
 新しい雑誌を生んで、それを育てるというのは、結婚生活と両立が難しいもので
あったのでしょう。(一緒に雑誌を立ち上げた大橋さんの妹さんは、同僚と結婚して、
大橋さんの後任の社長となっていますが。)
 次は、大橋さんの文章からです。
「創刊以来、随筆の原稿を依頼に行くのは、主に私か妹の芳子でした。第一号で川端
康成先生の原稿をいただけたのは、前にも書きましたように日本読書新聞にいたとき、
原稿をいただいたことを、先生が覚えていてくださり、快く書いてくださったからで
すが、だいたい、まだ無名に近い、原稿料を払ってくれるかどうかもわからない雑誌
社の、それも無名の編集記者が頼むのですから、まず断られるのが当たり前です。
 初めてお願いに伺いますと、よく『ほかに、どなたにお願いしているの』と聞かれ
ました。
そんなとき、『川端康成先生や森田たま先生・・』と言いますと、多くの方が引き受け
てくださいました。」
 「暮しの手帖」が多くの文化人から原稿をもらうことができた裏には、大橋姉妹の
ような粘り強く、熱心な編集者がいたからであります。