建築家つながり 3

 昨日に表紙カバーを掲載した松村正恒さんの「無級建築士自筆年譜」についてで
あります。
 表紙にある写真は、松村さん学生時代のポートレートのようです。裏表紙の写真は、
写した年は不明でありますが、学校を卒業した松村さんがはいった事務所の土浦亀城
さんとの一緒のものです。
 表紙カバーには、この著者を紹介する短文が掲載されています。(編集者によるもの
でしょうか。)
「今から四十年ほど前、愛媛県松山市の南西にある八幡浜市では、子どもや町の人々
の生活の場としての学校がいくつも建てられていた。当時、理論化されつつあった
クラスタータイプのプランニングが、このみかんと漁業の町ではすでに実現されていた
のである。これらの学校を設計したのが、八幡浜市役所に籍を置いていた松村正恒さん。
1960年の『文藝春秋』の『建築家ベストテン』という特集では、前川國男丹下健三
村野藤吾等と並んで日本を代表する建築家に選ばれている。
 しかし松村さんは名を掲げることを嫌い、その後松山で独立してからも、一介の町の
建築家に徹してきた。いいたいことをはっきり言い、わかりやすい言葉で『建築家とは
いかにあるべきか」を説く松村さんは、煙たがれもしたが後進の建築家からは慕われて
いた。
自称『無給建築士』。事務所の入口に掲げられた登録証の上に、ある時は『無給建築士
またある時は、『無休建築士』と次々に『肩書』を書き変えていた。これが、この本の
タイトルになっている。年譜は自ら書きおこしたものだが、松村さんは出版を前に急逝
した。」
 亡くなったのは1993年で80歳とあります。出版はその翌年ですが、よくぞ生きている
うちに企画がなされたことと思います。
上に引用した文章に1960年には日本を代表する建築家にあげられたとあるものの、90年
代には、ほとんど忘れ去られた存在であったのでしょう。
 この本のあとがきは、編集担当の中野照子さんによるものですが、この本ができるに
いたった背景を次にように記しています。
「実はこの本をつくるきっかけは、四国でもとびっきり元気のいい多田善昭さんが
つくってくれた。1992年4月29日のことだ。・・四国にいるはずの人間が突然眼の前に
あらわれて、『松山にすばらしい建築家がいる。その人となりと仕事を多くの人に知っ
てもらいたいんだが』と言い出したからである。
 不勉強は私は、松村さんのことをまったく知らなかった。最初に八幡浜の学校や病院、
松山の病院や住宅などをみせていただいた。どれもすばらしく、ことに四十年も前に
建てられ、今なお使い続けられている学校に感動させられた。」
 今回、重要文化財となった日土小学校は1958年に竣工とありますので、ちょうど当方
が小学校に行くようになったころの建物です。この学校は、現在もそのまま小学校と
して使われています。松村さんの設計による他の学校は取り壊されているようですが、
いまから55年ほども前の学校がいまでも使われていることは、本当にすごいことです。
今の子どもは、もっと便利な学校のほうがいいといいだしそうでありますが。