建築家つながり 4

 八幡浜市にある「日土小学校」は現役の小学校でして、いまも毎日地域の小学生たち
が通っています。最近の地方都市は少子化の影響で生徒数が激減して、学校の統廃合と
いうのがあちこちで進んでいますが、日土小学校だけは別格の存在となりました。
ここにいたるまでは、四国の建築家たちを中心とする保存活動があったのですが、それ
は保存をすすめる団体のホームページなどで知ることができます。
http://wada-archi.com/hizuchi/
 いまのところ戦後というと1945年以降のことをさしますが、なかでも49年の朝鮮戦争
による特需をきっかけに戦後復興から高度成長期につながっていく時代に戦後を感じる
ことであります。ちょうど当方が生まれてから義務教育を終えるころまでのことです。
アメリカ占領下における理想主義的な教育が進められていたわけですが、これに呼応し
たのが松村正恒さんの学校建築といえるでしょう。
「1955年、郷里新谷に中学校が建ちました。当時中学卒業生の多くは社会に出ていきま
した。彼らにとって中学校は最終の教育の場でありました。世に処してゆく術を身につけ
てやりたい、人に恥じない意志の強い人間に育ててやりたい。先生も生徒も村の人も熱心
でした。
 社会教育施設のない頃です。学校を最大限に活用したい、このことが計画の基本にあり
ました。村民の生涯学習の場でありたいと願いました。」
 ここに引用したのは、松村さんの「自然で簡素な学校をつくるに真剣だった。」という
1988年に発表した文章の冒頭部分です。これに続いて「夢はみじんにこわれました」と
ありますので、思いをこめた学校は作ったが、自分が思い描いたような使われ方はされて
いないということでしょうか。
 まずは学校現場の先生たちへの不満(?)であります。
「指導者不在ということを言いましたが、これは教育全般にいえることなのです。とくに
近年学校の先生がやる気を失っています。これは大変残念なことです。先生自身があまり
ものを言わなくなっている。むかし、『私は貝になりたい』というテレビドラマがありま
したが、ちょうどあのような状況になっているのではないでしょうか。」
 ついでは、近年の学校建築についてです。
「今の学校検知器に欠けているのは、教育に対する根本的な思想です。私が学校をつくっ
ていた頃に、ヴィジョンということが盛んに言われたものですが、今は、それに変わって
イメージということが強調されている。ヴィジョンが言われた時代には、深慮遠大な視点
があったと思うのです。イメージあるいはデザインが言われる今日、そういう視点が
どうも欠けているように思われる。ものの考え方が、非常にせまくなっていますね。
それは風潮だからしかたのないことなのかもしれませんが、これはただの自己満足に
終わってしまうのではないでしょうか。」
 松村さんによる現在の学校建築への厳しい批判であります。教育現場が管理に支配され
ていますと、よい学校ができるわけがないといっているようにも思えます。
松村さんは、どういう考えで学校つくりをしたかが、これまでの引用に続いて展開されま
す。