六枚のスケッチ 6

 本野亨一さんの「文学の経験」というのは、「私にとっての文学の経験」となるの
でありますが、カフカ小林秀雄森有正などを取り上げているのですから、一筋縄
ではいきません。
「文学の経験」の「はじめに」から引用を続けます。
「文学はなにかある種の伴侶であったと思っています。ただ、文学は私を打ちくつろい
で閑暇を楽しむ気持ちだけにさせてはくれない、何ごとかについて力強く声援を送って
くれたと断言もできない。それは油断のならないへんな相手としてしか出現しませんで
した。どこかきゅうくつなのです。しかし、こちらをきゅうくつな目にあわせてくれ
ない相手には、どうしても私は冷淡になってしまう、わざわざめんどうな目にあうよう
に相手に仕向けてしまう。そしてこちらは、手を焼くとか手こずるとかの動作を単調に
くりかえしている。」
「文学はある種の伴侶」というところには、まったくの同感であります。このあとに、
「ただ」と続くのが、どうやら本野さんの流儀のようであります。「きゅうくつ」を
楽しむ読書というのは、「本をねころんで」というのと対極にあるもののようです。
どうりで、「文学の経験」で取り上げられている六人と、当方はなじめていないはず
です。文学を通しての経験が苦行のような色彩を帯びるというのは、この時代には、
なかなか受け入れられそうにありません。
 先ほど引用したところの続きの部分です。
「つまり、文学は、重い塊のようなものとして一見無意味に砂地のうえにころがって
いるのだが、それから目をはなすことができないでいて、そのとき、私は醒めた状態
でいるのです。醒めるとは、とつぜんなにかに気がつくことです。それはたんに
『なにか』に気がつくのであって、かくべつ奇怪もしくは幻想的なものでもなく、
異様に高いものあるいはへんに深いものでもない、ただなにか自分が『べつな状態』
でいることはわかるだけなので、その状態をあるばあい不安などとも呼び、とつぜん
あたりが変色・褪色してしまうが重い塊のまわりだけはあざやかに見え、重い塊が
こちらを見つめている。これがある種の伴侶の表情です。」
 「ある種の伴侶」というのは、文学のことでありますが、難渋なことであります。