幸運な医者

 当方が学生であった頃、松田道雄さんは小児科医で評論家という二足のわらじで、
そのどちらでも大きな影響力を持っていました。
「革命と市民的自由」とか「私が読んだ本」、そして「ロシアの革命」などを読んだ
世代は、子育てをするようになると当然のように「松田道雄 育児の百科」を参考書
に選んだのであります。いまでは「岩波文庫」にはいっている「育児の百科」であり
ますが、いまから30年ほど前は、子育てのための実用書でありました。これで一番
参考になったのは、こどもが「突発性発疹」になったときのことでありまして、この
本に記されていることを、どれほど心強く思ったかです。それ以来、若い友人たちに
こどもが出来たときには、この本を贈ることにしていましたが、いつのまにか新本と
しては入手できなくなり、いまではブックオフなどで岩波文庫版の一分冊よりも
安い値段で購入できたりします。
 この時代に子育て中のお母さんに勧めますと、予防接種のこととか、医学的な側面
で、最近の流れでは違和感といわれたりします。メディアで医療に関する情報が多く
報道され、少子化で大事に育てられて、心配性になっているお母さんたちには、松田
道雄先生のおおらかな育児というのは、受け入れられないかもしれません。
 松田道雄さんを主治医として育った有名人は、けっこういるようで、そうした有名
人は、医師としての松田道雄先生について書いていたりしますが、松田道雄さんは、
究極の町医者でありますが、かっての医師会のドン 武見太郎さんと同じく、保険医
ではなりませんでした。
 医師会のドンと医師会に批判的な松田道雄さんが、ともに自由診療を行っていたと
いうのは興味深いことです。武見太郎さんは、岩波茂雄さんの主治医であるほか、
多くの著名人を顧客としていたように思います。
 松田道雄さんは、どうでありましたろうか。「幸運な医者」には次のようにあり
ます。
「私は自由診療しかやらなかった。戦後すぐの時の保険では、いい薬を使えなかった
し、往診料も安くきめられていた。左翼に対する公安当局の監視がきびしくて、共産
党員のある医者が、麻薬の調査と称して家宅捜索を受けた。私はすぐ麻薬取扱者の免許
を返上した。保険医になって立ち入り調査をうけるのはいやで、とうとう保険医になら
なかった。」
 この自由診療について、こどもがかかりつけであった松尾尊よしさんは「幸運な医者」
の付録で、次のように書いています。
「診断本位で、過剰診療をしない先生は、生活維持のため、保険医ではなかった。診察
料は助手身分にはやや高かったが、一つも苦ではなかった。安心感が与えられたからで
ある。電話相談もできた。」
 一日に診察する患者は十五人で、これを四時間くらいかけてみるわけでありますから
して、これでは生活はできないことであります。