中村とうようさん追悼 12

 「フォークからロックへ」は、新書サイズで主婦と生活社「Rock Music Library」
の一冊です。この単行本は、71年刊行ですから、この時はすでに
「ニュー・ミュージック・マガジン」を立ち上げていました。「フォークからロックへ」
の自分史にあたるところには、次のようにあります。
「 音楽評論を職業にしようと、本気で意欲をもやし始めたのは一九六一年の春ごろの
ことだったと思う。実をいうと、この少し前、ぼくは自分で音楽雑誌を出そうと思って、
レコード会社に広告の依頼をして廻ったことがある。だが、どこの馬の骨だかわからない
若僧にホイホイ広告を出してくれるほど、レコード会社も甘くはなかった。一定額以上
の広告の目算が立たないと雑誌は成り立たない。まったくあっけなく、この計画は流産
してしまった。」
 60年秋に銀行をやめてから、フリーターとなって学生時代からバイトをしていたガリ
版印刷でもって生活を支えていたのですが、なんとか音楽で生計を立てたいと考えてか
らが、音楽業界での修行時代であったわけです。
 念願の雑誌を創刊したのは69年4月ですが、その半年以上も前から準備をしていたと
あります。
「68年秋ごろから、ぼくは、自分と音楽との取り組みの姿勢を明確に打ち出すために
小さな個人雑誌を作ろうと考え始めた。暮れ近くになって、たまたまその考えを飯塚
晃東氏に打ち明けたことがら、『ニュー・ミュージック・マガジン』のアイディアへと
発展して行った。69年4月、A4版本文64ページのリトル・マガジン
『ニュー・ミュージック・マガジン』がスタートした。」
 時代の転換点となる968年であります。当方は、地方の高校3年生でありました。
朝日ジャーナルくらいは手にしていましたでしょうか。中村とうようさんにも引き続き
で注目をしていましたので、とうようさんが雑誌を立ち上げるというニュースは聞こえ
ておりました。

この新聞記事は、68年「朝日新聞」のもので、当方の一番古いスクラップブックにある
ものです。数学のノートに貼り込んであるのですが、もともと数学が弱い当方には、下
に見えている積分の数式が、ほとんど理解できません。これの裏には、映画評論家の
佐藤忠男」さんを取り上げた「人 その意見」がありました。
 このとうようさんの記事には、「本心から歌えるフォーク・ソングを推進する音楽評論
家」とあります。とうようさんの発言を次のように紹介しています。
「 虚構の世界にある歌の世界をなんとか現実の人間に即した生きた歌へもどしたい。
夕日が沈んだ後の歌も悪いとはいわないが、もっと前向きの、若い世代の訴えや叫びに
マスコミや一般の人も目をむけてほしい。大衆文化の主流は音楽といっていい気がする。
頼まれ原稿やディスク・ジョッキーなど、漫然と仕事をやっていては取残される。
若い世代の現場に飛込み一緒に行動しなければ現代に生きた良い仕事もできないで
しょう。」
 これに続き、記者の文章が次のように続きました。
「 心から歌える新しい大衆の歌の運動とともに、来春は『スモール・マガジン』を自費
で出版し、若い層がどんな歌を望んでいるのか探求してゆくそうだ。」
 この記事の掲載はいつのことかわかっていないのですが、「若い世代の現場に飛込み
一緒に行動」というところに68年の時代を強く感じることです。