小沢信男著作 72

 佐多稲子さんの「私の東京地図」の舞台になっているところで、当方が住んで
なじんだ場所は、目黒のみであります。東から西へむかってUターンするのが
目黒でありますので、佐多さんにとっては辺境でありましたか。
 住まいは下目黒であったようですから、これは当方の住んでいたアパートの
近くでしょうか。
「目黒駅から下目黒へ降りてゆくあの広い坂、途中から左へ折れ込めば今は雅叙園
があるので、私も何度か途中のそこまではこの坂をその後も降りたのだが、この坂
はずいぶん勾配の急な坂なのだ。道幅が広いので、あの勾配の急なのがわからない
でいる。二月の、寒い夜、私は夫と二人で、この坂を降りていった。時間がおそくて
もうバスはない。あのバスはどこまでいっていたのだろう。二人は下目黒に越して
いた我が家へ帰ってゆくところだった。坂は暗くて広くて急だった。大きな立派な
坂だともいえよう。二月の夜の寒気で、坂道は凍っていた。・・
 その頃はまだ府下下目黒の、祐天寺の森のうしろにあった小さな文化住宅、そこに
住んでいる怠惰な若い夫婦、人前ではいい争いひとつしない。今日の言葉でいえば
働かざる階級の、こじんまりとした生活にちがいなかった。・・・
 目黒にはいちご園や競馬場がまだあったころだ。背に蔽いをかけた競馬の馬が運動
に引き出されて通ってゆく。」
 当方が住んでいたのは、下目黒で、近くに元競馬というバス停がありました。
これは目黒競馬場がかってあったことを今につたえる地名(?)のようになって
います。いまでもかっての競馬場トラックにカーブにそって住宅がたっていて、
いまとなってはどうして、このように家がたっているのかわからなくなっている
のでありました。しかし祐天寺の森というのはどこのことでしょう。いまは、
家が建て込んでいますので、下目黒と祐天寺は、ちがったエリアとなっていますが、
むかしはすぐ近くという感じだったのでしょう。

 上の写真は、下目黒から目黒駅にむかっての風景であります。この右の坂を
権之助坂といったように思います。これはこの坂を開いた人の名前ではなかった
でしょうか。通勤のために、この坂を汗をかきながら駅にむかった時にことを
思い出しました。