小沢信男著作 32

 小沢信男さんの「東京の人に送る恋文」あとがきからの引用 続きです。
「私は小説も雑文も、大量生産の能力はないが、それにしてはけっこうさまざまな
ことを、さまざまなスタイルで書いてきたつもりでいました。とりわけ雑文のほうは、
書評、映画評、風俗時評、旅行記、その他、グラビア写真のコピーまで、折々の注文
に応じて書きちらしてきました。あられもなき無原則といわばいえ。その間にそれな
りの手品は弄してきたつもりなのです。
 ところが、こうして一冊に編集されてみると、なんとまあ、私はわがまずしき履歴
書を、おくめんもなく延々とくりかえして書いてきたことか。せっかくの手品もお客
に背中をみせた丸見えでやっていたような当惑さえもおぼえます。
 いうならば著者の私は材料を供出し、編者の津野氏はそれらを吟味し、選りわけ、
組みたてて、ひとつの作品をつくってしまった。どうもそうらしい。
 それでようやく私にもわかってくることは、小説といい、時評といい、エッセイと
いい、文章のそれぞれにつけられるもろもろの肩書きは、じつは本来不要なのでは
あるまいか。せいぜい言えることは、小説という名の自由作文と、雑文としてつくら
れる課題作文の、二通りがあるのにすぎないのではあるまいか。」
 この「東京の人に送る恋文」は、津野さん編集となりますが、この本は75年にでて
います。津野さんは、編集者としてのスタートを「新日本文学」ではじめたのですが、
小沢信男さんとはじめてあったのは、「新日本文学」を通じてのことであるとのこと
です。
 津野さんの著書「おかしな時代」( 本の雑誌社 2008年10月刊)には、次の
ようにありました。
「そういえば小沢さんとは最初、いつ会ったんだっけ、バックナンバーを見ると、
1964年5月から7月号までの三ヶ月間、小沢さんが同人評をしているから、おそらく
そのころだったのだろう。どこで会ったのかはおぼえている。上野不忍池のそばに
あった「うえの」というタウン誌(などというコトバはまだなかったが)の編集室
だった。小沢さんは、この雑誌の編集顧問かなにかをしていたのである。・・・
 古びたビルの一階にある編集部のドアをあけて、
『小沢さんいらっしゃいますか』
おずおず声をかけると、ご町内の商店主らしき客と談笑していた人物が、ヘイ、わた
し、とこちらに顔をむけた。
 あれ。ちょっとちがうじゃん。・・
 じっさいにあった小沢さんは、アヴァンギャルドどころか、江戸のむかしがわずか
にのこる古いまちにしっくりなじんで暮らしている、おだやかな『おじさん』みたい
な人だった。府立六中で小野二郎と同期だったというから、じっさいには『あにさん』
の年代だったが、そのときはそう見えてしまったのだからやむをえん。目がいつも
笑っていて、でもそれがときおりギロリと皮肉な光を発するようでもあった。」