メディア・アート創世記 5 

 坂根厳夫さんが朝日新聞に「美の座標」を連載していた時期は、坂根さんが大阪万博
取材にかかわっている時期でもあったようです。それまでの坂根さんの活動からすると、
万博の企画にもかかわっているように思えるのですが、新聞社の社員という立場からは、
それは表にはでてこないようです。
 大阪万博といえば、いまでも万博公園には岡本太郎が制作した「太陽の塔」が健在で
ありますが、今年は岡本太郎の生誕百年ということで、それもあって、「太陽の塔」を
メディアで見ることが多くなっているようです。「太陽の塔」を占拠して、自分の主張を
訴えた同世代の人がいたことを思いだしますが、大阪万博には足を運ばないというのが、
若い人にとってはトレンドでありまして、当方は期間中は京都に住まっていましたが、
結局は一度も雰囲気を味わうことがありませんでした。たいへんな人が集まって、長い
行列ができていたというニュースを見て、おそれをなしたせいでもあります。
 いまになってみますと、次のような坂根さんの文章(メディア・アート創世記の)を
読みますと、雰囲気くらい味わっておくべきであったかと思うのでした。
「いまでも印象に残っている展示物は少なくない。日本の鉄鋼館では、武満徹秋山邦晴
が中心になって、レーザー光線と音楽による作品を展開していたし、せんい館では映像
作家の松本俊夫が総合プロデューサーとなり、『スペース・プロジェクション・アコ』
と称する十数台の映写機からの映像、湯浅譲二の音響、横尾忠則による三次元的ドームの
構造のもとで斬新な世界を繰り広げた。・・
大阪万博の展示にかかわった作家たちとは、その後も長く関わることになった。」
 万博の時に光があたるのは、前衛と伝統的なものであるようです。武満徹とか湯浅
譲二さんは、万博のような舞台でもなくては、大衆的な知名度があがるとはとうてい思え
ないことです。
「それぞれの時代の最先端の科学技術を駆使しながら、新しい芸術に仕立てあげる作品の
登竜門だったという、万博の歴史的役割が浮かびあがってくる。かって芸術と科学は、
二つの文化として相容れない専門分野だったが、万国博という国際的な催しを契機に、
この二つの先端部分を繋ぎ合い、未来を先取りしようとした歴史が見えてくるのである。」