あいさつ指南書  8

 丸谷才一さんが行った吉田秀和さん祝賀会などでのあいさつを話題にしています。
 丸谷さんは、吉田秀和さんに大きな影響を受けたと語っているのですが、たぶん吉田
さんについてのまとまった評論は書いていないと思います。(どこかにありましたら、
見落としていますので、ご容赦です。)
 最近は、吉田秀和さんを取り上げる方もいらっしゃるでしょうが、今からほんの40年
ほど前には、そういうこともありませんでした。そうした中で残されたのが、昨日に記
した篠田一士さんの「批評のスティルをもとめて」であります。これの初出は文芸誌
「すばる」71年2月号です。当時の「すばる」は、今より大判で表紙にビニールカバー
(?)がかかっていたのではないでしょうか。石川淳の「狂風記」とか安東次男の
芭蕉七部集評釈」が連載されていて、たいへん刺激的な内容になっていました。
 篠田さんのこの文章は、「音楽に誘われて」(78年 集英社刊)に収められています。
この文章の書き出しは、次のようになります。
「 批評は、文体によって、それ自体文学になりうるという、言いふるされたテーゼが
正しいならば、吉田秀和氏のもっとも新しいエッセー集『今日の演奏と演奏家
音楽之友社)の読者は、しばしばそういうめでたい瞬間に祝福されるであろう。」
 この書き出しに続いて、吉田さんの文章の長い引用があります。そして、それに続く
文章です。
「行文明快、流れるような見事さである。一読して論旨はだれにも理解でき、しかも、
読む快感が伴う。一口でいえば、英語のreadableという形容詞をそのまま体現したよう
な文体が、ここには一貫している。言葉はひとつひとつえらびぬかれ、無駄な言い廻し、
不必要なゼスチュアはひとつもない。もちろん一見平明にみえるこの引用文のなかだけ
でも、作者は何度か、大小さまざまな屈伸を行っているけれども、それらは文章そのもの
の進行に必須なリズムと色彩を与えるためであり、さらにもっと大事なことは、ここで
論題となっているカラヤンの『指輪』という、大変プロブレマアーティッシュな音楽が
提示する難問の本質に迫るための手立てにほかならないのである。そして、この手立ては
あざやかな効験をみせている。」
 丸谷才一さんが、「わが文章の師」という時に、それは、上に引用した篠田さんの評に
通じるものでありますでしょう。