新聞書評欄 4

 矢内原伊作さんといえば「ジャコメッティ」でありますが、ジャコメッティから見た
ときは、どのような存在であったのでしょう。「ゲーテへの対話」を著したエッカー
マンのように、「ジャコメッティとともに」で後世に名前が残るのでしょうか。
  昨日のみすず書房「歩きながら考える」には、矢内原さんが「ジャコメッティ」に
ついての短い文章が収録されています。
「 彫刻家アルベルト・ジャコメッティと親しくなったのは1955年、私がパリに留学
していたときだった。1956年秋のはじめ、二年間の留学を終えた私は、帰国の挨拶を
するため彫刻家のアトリエを訪れた。そうか、それでは記念に君の顔を描こう、そこ
に坐ってくれたまえ、彼はそういって私の顔を描きだした。彼は彫刻家として有名だ
が、彫刻に劣らず絵画にも打ちこんでいたのである。彫刻においても絵画においても、
見えるものを見える通りに実現する、というのが彼の願望だった。その至難の、前人
未到の冒険に彼は熱中し、くる日もくる日もそれに取り組んだ。私もまた帰国の予定
を何度も延期し、一日も欠かさず彼のアトリエに通い続けた。双子の兄弟以上に
私たちは離れがたくなっていた。三カ月目になって、どうしても日本に帰らなければ、
と私がいうと、彼はいたく悲しんで、すこしでも早くまたパリに来給え、と言った。
そして翌年の夏前に東京パリ間の飛行機の切符を送ってきたのである。1957年、
59年、60年、61年、それぞれの夏休みに私はパリに行った。
 ただ、かれの前で不動のポーズをとるだけのために。66年に彼は亡くなったが、
そのとき私はまるで私自身が死んだように感じた。」
 矢内原さんが親しくなったといっているのは、37歳の時になりますが、それから、
密な付き合いがはじまり、「双子の兄弟以上に、私たちははなれがたく」といって、
数ヶ月日本に帰国するのを遅らせるのですから、普通ではありません。
ジャコメッティの芸術につきあうというのは、こうした普通でないことを受け入れると
いうことでしょうか。