当方の手元には、川崎彰彦からいただいた葉書が何通かのこっています。
長谷川四郎スクールの一員として川崎さんのことを知って、編集工房ノアが
まだ正式にスタートする前に涸澤さんがだされた「わが風土抄」とか、高村
三郎さんが孔版印刷で刊行した「「私の函館地図」を入手して、ファンレターを
だしたもののようです。
当方の手元にはまだ病に倒れる前の76年くらいにいただいた葉書から、リハビリ
途上における左手で記していただいた84年の葉書など5枚程のこっておりました。
一番早いものは、ちょうど大阪文学学校の事務局をやめたときのあいさつですが、
「退職ならびに転居のお知らせ」とタイプ原稿でガリ版印刷でのはがきです。
「 ところで表記へ転居しました。竹やぶのほとりの学生アパートの一室で、窓が
南側と西側にあり、明るくて閑静なイオリであります。鳥どもの声がしきりです。
乞携瓢来駕」とあり、「おたよりいただきながら梨の礫でごめんなさい。筆無精な
のです。」と自筆で書き添えてあります。
当方の年代は、マンガ雑誌などを手にしたとき、枠外に「・・先生にはげましの
おたよりをだしましょう。」という文字を目にして育ったものですから、作家の
先生にははげましのおたよりをだすものと思っていたのかもしれません。
( 当方がはげましのおたよりをだしのたは、長谷川四郎、小沢信男、高杉一郎、
そして川崎彰彦でありまして、やみくもにだしたのではないのですが。)
転居したのは、枚方市の第2蛍雪荘というもので、文学学校のチューターを勤め
ながら、自宅で校正を行い、作品に取り組むという日々をおくることになりました。
この時のことを作品にした連作が「芙蓉荘の自宅校正者」をはじめのシリーズで、
ちょうどこの連作にかかっているさなかに最初の脳出血にみまわれることに
なります。それから数年たった84年に「夜がらす記」として編集工房ノアから
刊行されています。
本日目にした川崎さんの死亡記事には、代表的な作品として「夜がらすの記」が
あがっていまして、小生は思い入れもあるせいで、このことをこのましく思いました。
結局のところ、川崎さんが亡くなるまでお会いする機会はなかったのでありますが、
作品にも背景をかざる人物として、当方を登場させていただいたりしたせいもあり、
当方の思い入れは深くなったのであります。
作品に登場する当方は、次のようになります。
「 北海道に住む未知の読者が、詩集のお祝いといって、ニセコの新ジャガイモを
平たいダンボール箱にぎっしり送ってくれた。未知の読者と言ったが、会ったことが
ない、というだけで手紙は何度かもらっていた。敬助の書くものに、まめに目を
通してくれるごく限られた読者の一人で、若い人のようだ。はるばる北海道から
ジャガイモを贈られて敬助はうれしかった。小山清『落穂拾い』の主人公の売れない
小説家が、古本屋の少女から誕生日のお祝いに爪きりと耳かきをプレゼントされた
ようにうれしかった。手紙には『ジャガイモパーティでも開いてください』とあった。
かって新聞記者だったころ啓助も北海道で生活をしたことがあるが、ジャガイモ
パーティとは初耳だった。」(「夜がらすの記」所収の「春は名のみの」から)
そのときに、どのようなお手紙をさしあげたのか、まったく覚えておりません。
ジャガイモパーティということを当方が記したのかどうかも判然といたしませんが、
「小山清の作品のシーン」と比べられるのでありますから、喜ばないわけがありま
せん。
川崎さんは、極少ないけども熱心なファンに支持される作家です。「夜がらすの記」
はおすすめです。この機会に、ぜひとも読まれることをおすすめいたします。
- 作者: 川崎彰彦
- 出版社/メーカー: 編集工房ノア
- 発売日: 1984/05
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