カズミさんつながり 6

 文春新書というのは、小生が欲しいと思うものにかぎって行きつけの店では切れて
いるという不思議な新書であります。先日に拙ブログで紹介した平井一麥さんの
「六十一歳の大学生、父野口富士男の残した一万枚の日記に挑む」をやっとで入手しま
した。あまりにも長いタイトルは、いかがなものかと思いますが、無名の方の本をすこし
でも売りましょうと思ったら、このようになってしまうものでありますか。
 作家 野口富士男さんの長男である平井一麥さんは、あとがきに次のように書いて
いました。
「 私は小学校高学年から中学に入りたてのころ、作家とはあまりに辛く、ムゴイ生活で
あることを知ってしまった。だから私は決して作家になるだけはやめようと思って、
サラリマン生活を選んだ。だが、父の日記を整理し小説やエッセイを読んでみると、
生き方には通底するものがあると思ったが、あらためて作家とは因果な職業だと痛感した。」
 文学者のなかには、家庭を帰りみないとんでもない人物がいたりしますが、野口富士男
さんは、そのようなことはないようで、この新書本は、両親にささげられています。
 この本から、一麥さんというお名前に関するくだりを引用します。
「 私の名前は一麥と書いて『かずみ』と呼ぶが、父は最初に太郎という名前を考えて
いたという。ところが気づいてみると、江戸川乱歩氏の本名とおなじだった。そのため、
この名前を考えたのだそうだが、六十八歳に達そうとする今日まで、だれ一人『かずみ』
と読んでくれた人はいない。・・・
 父は第一子 一麥 第二子 二生 第三子 三峰と決めていた。一麥はアンドレ
ジイドの『一粒の麥もし死なずば』からとったということだった。」

 うまれてくる子供が男女のどちらであるにも関わらず、名前は用意してあって、現実に
このとおり二人目のお子さんも名付けたとのことであります。この第二子さんは早逝した
ので、ほとんどひとりっこのように育ったとありました。
「『麥』という字は小学生にとって結構むずかしかったが、良きにつけ悪しきにつけ、
この名前はすぐに覚えてもらえるので、・・私自身も現在はとてもいい名前だと思っている。」
 この平井一麥さんが生まれたのは昭和15年でして、これは皇紀2600年ですから、
この年の男子には戦時を反映した名前を持つ人が多いといわれます。そうしたなかでの
一麥さんでありました。