帖面舎の本 4

 福原驎太郎さんの「明日に新しく」( 帖面舎刊)をみていましたら、なかに
「ラジオのプログラム」という文章がありました。これは昭和32年頃の文章で
ありましょうか。いまから50年ほど前のものです。テレビが日本の家庭に普及
したのは、昭和34年(59年)の当時の皇太子ご成婚のときといわれています。
その時は、小生の家庭にはテレビがありませんでしたので、この世紀のイベントは、
よそのおたくにいってテレビを見た記憶があります。自宅にテレビがはいったのは、
昭和36年(61年)のことでした。これは当時としても、早過ぎも遅過ぎもしない
のでありました。
 昭和32年(57年)は、テレビはまだまだお茶の間の中心にはなっていなかった
のであります。福原麟太郎さんの「ラジオのプログラム」を読むときは、子どもの
ころに家族そろって、ラジオ番組を聞いた時代のことを思いださなくてはいけません。
「あなたがもしラジオのプログラムを任されたらどうしますかと聞き合わせが来た。
先ず、漫才みたいな道化みたいなアナウンサーの退場を求めますと書いた。あの
主としては素人の登場者を相手に、歌を唱わせたり問答をしたりして、そのしろうと
をからかう役、そして自分でも一ぱしわらわせ役のつもりで、くだらない下手な
おべんちゃらを言う役を得意になって演じているアナウンサーが憎くてならない。
からかわれるのを喜んでいるしろうと客も愚かだが、しいてからかい、見えすいた
質問などをするアナウンサーは、ひとを馬鹿にしている。・・・
 それから、第二に下手な芸人はみなお断りするとかいた。落語などでもちゃんと
した芸があり、聞けると思うのは、三、四人か四、五人に過ぎない。あとはたまに
うまいとかいう程度、全然芸になっていないほどの連中である。・・
 それから、第三に、朝の娯楽番組を全部やめてしますと書いた。・・
 私は、せめて朝の時間は清浄にしておきたい。そしてまじめな思考や知識の
ために費やしたい。もちろんまじめな仕事の時間でありたい。それをどうして
ラジオは朝から寄席をあけているのであろうか。民間放送がひどい。・・」

 ほとんど、ラジオをテレビに置き換えても文意がとおるものでありまして、
このような文章を読みますと、つくづくと人間という者は変わらない者だと
いうことがわかります。