日の移ろい 2

 昭和46年ですから、いまから40年近くも昔のことになります。一週間後に上京する
島尾敏雄に原稿を依頼するため、わざわざ奄美を訪問する出張の伺いを提出して安原顕に
対し、当時の中央公論社の嶋中社長は出張日程を二日に短縮し、五万円の旅費とすること
で認めたとあります。
 最近は、どうなのかわかりませんが、編集者が原稿をもらうために出張するという習
慣はいまも残っているのでしょうか。編集者がわざわざ原稿を取りにくるというのは、
大物の証拠でありまして、作家は多くの注文をかかえていたら、催促とあわせて原稿の
受け取りに足を運ばなくてはいけなかったのでありましょう。流行作家で、並行して
何本もの作品を書いているような場合は、自宅で各社の編集者がつめて原稿の仕上がりを
待つなんてことがあったようです。
 安原顕が、無理を重ねて奄美へといったことは、島尾敏雄に「日の移ろい」を書かせた
だけでなく、その後「海辺の生と死」という作品を書く事になる島尾ミホとの
コンタクトがとれたことでも評価できるといわれています。このような実りの多い出張
ばかりでありましたら、社長も出張を値切ったりしないでしょうが、むしろ実りが多い
こちらのほうが例外でありましょう。
 島尾敏雄「日の移ろい」 昭和48年2月20日付のページ
「 昼下がりに県立病院の総婦長が来て土曜日に同病院の看護婦を対象に話をしてほしい
といっていた。わたしはへただからなどとひとりごとのようにつぶやいてみたが、もし
断るつもりなら、相手の言い分を聞く前にだめだと言明しなければ成功しない。・・・
 患者としての一兵卒の私が、多くの性の悪い下士官の看護婦とその背後でひややかに
腕組みした将校医師の居並ぶ前で、どんなことをしゃべってみたところで筋のたちようが
ないなどといった妄想がわきあがってくる。いたたまれなくなったので狭い分館長室を
ぐるぐる歩きまわった。」
 この時の、島尾敏雄は56歳で、今の小生よりもいくつか年少でありました。
ずいぶんと年をとった印象を持っておりませんが、小生もそのようにみられていると
いうことでしょう。