日の移ろい

 ほとんど島尾敏雄さんの作品にはなじんでいないのでありますが、奄美での生活を
綴ったものには惹かれるものがあります。その昔に東京で暮らしたときに、名瀬市
方と知り合いになって、その方々が図書館長であった島尾敏雄のことを、尊敬をこめて
島尾先生と口にするのを耳にしたからかもしれません。
 「日の移ろい」は、中央公論社からでていた文芸誌「海」に連載されたものですが、
それについて島尾敏雄さんは、あとがきで次のように書いています。
「 昭和42年の晩秋にひとりで東欧を旅行して帰ってきたころから、徐々に私に
へんな気鬱がはじまっていた。44年にちょっとした自動車事故をおこしたのも、
その気鬱とかかわりがあるかもしれない。その事故で半年ほどは病院のベッドが
動けなかったが、そのあとの気鬱はいっそうねじれてきた。昭和46年が最も
絶望的な状態であったように思う。その年の秋にそういう状態の私をたずねて、
『海』の編集者の安原顕氏が、当時冬樹社の編集者であった森内俊雄氏といっしょも
奄美まで来た。そして私は彼と連載原稿を約束したのだ。かたちが日記ふうなものに
なったのは、彼の慫慂に従った結果と記憶する。そういうかたちがそのときの
私にかけるぎりぎりのもの、と私も観念していた。」

 この時の、安原顕さんが奄美にいったことが問題となったということを、
村松友視が「ヤスケンの海」で書いています。この本に引用されている安原顕の
文章では、次のようになります。
「 ぼくは旅がおっくうで、作家が地方在住の場合、ほとんど会いにいくことはない。
しかし、島尾敏雄は最も敬愛する作家であり、奄美大島までかけることにする、。
台風のため、一晩鹿児島へ足止めされたとはいえ、島尾敏雄にあった。その折、
遅筆は彼に小説連載は無理にきまっているので、『日記のようなもの』の連載で、
やすみたい時期いつ休んでも自由だから永遠にやってくだいさいと、かなり
強引にリクエストした。ぼくが奄美大島を訪ねた一週間後、彼の状況を知って
いた社長に「東京で会えばいいのではないか」といわれたが、行ってよかったと
思っている。東京であって依頼しても結果は同じだったかもしれないが、後に連載を
頼む島尾ミホにもその時会え、何よりも島尾敏雄本人がとても喜んでくれたからだ。」
 社長は、一週間後に上京するのであるから、そのときにあえば、経費の節約に
なるといって、わざわざ行くに及ばずということで、安原は愕然とし、そのことを
聞いた村松友視は、かっとしてその姿勢をとう書簡を、嶋中社長につきつけるので
ありました。