こどもは親を選べない 3

 ほんとうは家庭など持たなければいいのにと思う純粋詩人が、間違ってこどもまで
もってしまうと、詩人は詩人であることをやめるか、家族を不幸にするかの選択を
せまられるようです。「生きる事は、召使いにまかせておけ」というわけには、
いかないのが、純粋詩人の家庭における現実です。
 そうした純粋詩人の子供として生まれた人は、父がなくなってからのインタビューに
答えて次のように語っています。
「 特に少年時代は、憎悪の対象といってもいいほど憎みましたね。それは自分の
貧しさのためではなくて、母親の苦労を見ての憤りです。現実生活を見つめてくれて
いないじゃないか、と。憎しみの極限までいって、この父親が鬼籍にはいるとき私は
一滴の涙も流さないだろう、と自分自身に対して豪語していた。でも実際に父の死を
迎えたとき、やはりとめどなく涙を流すことになって・・・
 私が六歳のときから晩年まで三鷹台で過ごしました。周囲は蘆の湿原で、私が子ども
のころは荒涼たるものでしたね。そこに借家をみつけて移りすんだわけだけれど、
屋根がセメント瓦で、すぐボロボロになって、座敷から、夜、星が見えるほどの
陋屋です。雨が降れば外と同じ。家の仲に草が生えた。あまりにもひどいうちで、
子ども心にも恥ずかしくて、学校に提出する欠席届けの用紙に父親の職業欄があって、
『著術業』と書いてありましたが、なんのことかわからないまま、そういう商売なんだ
なと。
 母は天性の野人というか、くよくよしない人で、ちょっと機嫌がいいとワッと
はしゃぐというタイプでしたからなんとかやっていったと思いますが、・・しかし
世俗的な意味で楽しいことなどなかったでしょうね。一家団欒なんて異世界の話です。
 手ばなしに自分の父は立派だったとはいいがたいですね。たしかに父の生き方は
あれでよかったのでしょうが、ぼくらにとってそれが良かったのか悪かったのか、
今では恩讐の彼方という感じです。ある年齢から薄皮を剥ぐように父への憎悪の
感情が消えて、今は憐憫の情が強いです。」
 このインタビューが行われたのは、純粋詩人二度目の全集が刊行されることを
記念しての冊子においてであります。すでに詩人が亡くなってから20年近い歳月が
たっており、この語り手である子どもさんは、56歳になっていました。
 この時、このかたは図書館に職を得ていたのですが、「働いてお金をつくって
高校へはいっても途中でなくなるので、高校一年を三回やるような具合だったし、
極端にいえば、名前もかけないほどの低学力でした。その時決心したのは、狼の
ように生きよう、一人で勉強するしかない、と。それから十年間は、読書にあけ
くれる毎日でした。」
この猛勉強ぶりは、くわしくきいて見たいものですが、独学でラテン語までやったと
ありました。この猛勉強は図書館員として生きていくことを可能としたのですが、
このような数奇な家庭に生きるということを、誰が望みますでしょうか。
 純粋詩人は、吉田一穂さんで、子どもさんは吉田八岑さんでありました。ここに
引いたのは、小沢書店「ポエティカ」 92年5月 特集「吉田一穂」のなかに
あるもので、窪田般彌さんが聞き手をつとめていました。