坂西志保という人

 最近読んだ本にロックフェラー財団の窓口になっている人として、坂西志保さんの
名前を見いだしました。いまではほとんど坂西さんの名前を聞くことはなくなっている
のでありますが1896年うまれの彼女は、日本の戦後からの復興期に相当の役割を
はたしたようであります。
 坂西さんは、若くして米国に留学して、そのまま米国議会の調査員として活躍、
戦争がはじまってから交換船で、日本に帰国して、戦後GHQのメンバーとなって
主に文化政策にかかわっていたようです。
 安岡章太郎さんの「僕の昭和史」には、以下のような記述があります。
 60年日米安全保障条約が問題となっている時代です。

「 そんな最中に僕は、ロックフェラー財団からアメリカ留学の招きを受けた。同じ
 ロックフェラー財団からよばれて、大岡昇平福田恒存中村光夫阿川弘之
有吉佐和子庄野潤三小島信夫といった人たちが、昭和30年前後から相次いで
アメリカに留学していた。手持ち外貨が乏しかった当時、外国に留学するには、
すべて向こうの財団、教団などの招待によるほかなく、たとい私費で留学する場合でも、
表面は向こうからの招待をうけたかたちをとらねばならなかった。・・つまり当時は、
戦時下以来の鎖国がまだ続いていたわけだ。・・・
 ロックフェラー財団の窓口になっているのは、日本人のS女史だった。・・
 僕はまず、自分が留学するにしても、何を勉強するか、これといった目標がないことを
いった。するとS女史は、
 『そんなことは、向こうへ行ってゆっくり考えればいいのですよ。あなたに、それを
考えるヒマをあげたいというのが、この留学の第一の目的です。』というのだ。」   

 こうして安岡さんは、アメリカ南部にいくことになったのでした。

 安岡さんよりも前に留学した庄野潤三さんは、「山田さんの鈴虫」(文春文庫)で、
次のようにかいています。
「 ザボンの花が本になったとき、坂西志保さんが図書新聞でとりあげて、いい書評を
書いて下さった。のちに私がロックフェラー財団の給費生として米国に一年間留学する
ことになったのは、坂西さんがお世話して下さったからであり、おそらくそのきっかけと
なったのは、坂西さんが私の『ザボンの花』を読まれたことであったろうと思われる。」

 ロックフェラー財団の招きで留学したメンバーは、ほかにどのようなひとがいるのかと
思いますが、ここにあがっている名前をみるだけでも、選考にあたったひとの、人を見る
眼の確かさを感じるのでありました。
 坂西さんは、小生の祖母とほぼ同年でありますが、ずいぶんとすごい人であります。