文楽人形遣い2

文楽人形遣い」という言葉は、日経連載の「私の履歴書吉田簑助」さんの肩書きで
あります。文楽浄瑠璃義太夫もほとんど遠い世界のように思いますが、かっては
もちろんそうではなかったのですね。
 その昔に、萩原延寿さんと石川淳さんの対談を見たことがありました。雑誌であると
思うのですが、どこにでていたものか、何をテーマに対談していたのかまったく忘れて
いるのです。この対談が記憶にのこっているのは、石川淳さんが、萩原さんに名前の
由来を尋ねているからでありました。小生の世代は、延寿という名を見て、なにも
感じないのですが、石川さんは、そのなまえからこれは浄瑠璃の名人延寿太夫による
ものだねとつっこみをいれるのでありました。萩原さんは、東京の下町の出身で
お父さんかおじいさんが、延寿太夫をひいきにしていて、その名前をいただいたと
いうのでありました。オクスフォード出身で英国流の歴史家と、昭和の浄瑠璃大名人と
いうのは、なんともミスマッチな魅力です。
 吉田簑助さんは、お父さんも人形遣いでありますが、子どものころから楽屋にいり
びたりで、結局は父と同じ道へと進むことになりましたが、履歴書の本日分は、
戦時中のことがかかれていて、昭和20年3月の大阪大空襲で本拠としていた四つ橋の
文楽座が焼け落ちたことがかかれています。
「ついに本拠の四つ橋・文楽座が焼け落ちた。文楽は神戸の松竹劇場に巡業中で
あったが、こちらも17日の空襲でやけ、首や小道具、衣装はほぼ全滅だった。・・
それでも、復活は意外に早く、四ヶ月後の7月11日から焼け残った朝日会館で
復活公演の幕を開けた。・・・・人の情を一心に表現する文楽には、やっぱり
戦争は似合わない。」
 そうした戦時中に東京新橋演舞場文楽を見物にいった人は、そのときの公演に
ついて、次のように書いています。
新橋演舞場のまえには、ほとんど人通りがなく、ほの白い夜空の下に演舞場の
建物だけが黒い大きな塊のように静まり返っていた。なるほど引っ越し公演は中止
らしいと私は思った。しかし、念のために入口までいってみると、意外にも入り口は
開いていて、受付の男もいた。観客の姿はどこにも見えなかったが、・・わたしは劇場の
中にはいった。・・
 たしかにそれは異様な光景であった。古靱太夫は、誰もみていないところで、遠い
江戸時代の町家の女となり、たったひとり、全身をよじり、声をふりしぼり、嘆き、
訴え、泣いていた。もはやそこには、いくさも、灯火管制も内閣情報局もなかった。」
加藤周一、「羊の歌」より)