「安南の王子」

 先日に新刊本をみていましたら森達也さんの「クォン・デ―もう一人のラスト
エンペラー」 (角川文庫 も 13-4)が眼にはいりました。第二次大戦後の日本に
おけるドキュメンタリーであるようですが、このタイトルをみて山川方夫さんの
「安南の王子」という作品のことを思い浮かべました。もちろん、小説「安南の
王子」のほうは、「 クォン・デ―」さんのことをモデルにしているわけでは
なく、「クラリネットを吹くバンドマンで、なまけもので、めんどうくさがりや」の
若者が、所属するバンドでプリンスとして君臨することからことごとをおお伽話と
して書いたものです。このプリンスとよばれた若者が、ほかのメンバーから
そそのかされて「安南の王子」のばけるということになります。
 そのうちに、ほとんどこのにせプリンスは次のような気分になるのでした。

「かれは故国を棄て、故国を失った安南の王子であった。すでにしてかれは少女の
同情と涙に価するみずからの不幸な流浪の境遇を信じた。」

 主人公がこのように安南の王子にたくしているのは、戦争で負けたことに
よって、日本の国のなりたちがかわってしまって、過去との間でアイデンティティ
保つことが困難となった違和感であります。作者である山川方夫さんは、父が
日本画家の家庭に育ち、ほかは姉妹という家庭で、それこそ乳母日傘で育った
のですが、敗戦と父の死に直面してから、いわゆる竹の子生活を余儀なくされたのでした。
気分としてはほとんど没落貴族であったのでしょう。
 最近も事業などが失敗して没落し、それまでの生活を大幅に見直さなくてはいけないと
いう人々はいることと思いますが、戦争、そして親の死によって没落にむかうというの
のは、またちょっとちがった側面があるように思います。
 
 山川方夫さんの「安南の王子」という作品は、現実に東京にいたとかいうクオン・ディ
さんの存在を知っていて書かれたものであるのかは、判然としませんが、いまの時代にも
亡命の王子たちはいるのですが、現実の世界との折り合いが悪くなって引きこもって
いる若者たちにも「プリンス」候補はいるのでしょう。