中村とうようさん追悼 5

 中村とうようさんが「中南米音楽研究会」京都支部にはいったとありましたが、昔は
音楽を深く聴くとなると、このような研究会にでもはいらなくては、出来なかったので
ありますね。当方の世代になっても、レコードは値段が高くて、簡単には買うことが
できませんでしたし、なんといっても海外の音源は、国内では入手困難でしたから。
 そうしたことを背景に、レコードで音楽を聴かせる名曲喫茶とかジャズ喫茶という
のが成立したのですね。雑誌などで取り上げられてタイトルは知っていても、聴くこと
ができない曲というのは、相当にあったように思います。USAトップ10の曲でも、国内
では発売されない曲がありました。
 ブッキッシュな音楽愛好家というのは、音楽は聴いていないけど、それについて
書かれた文章を読んで楽しんでいた当方のような存在をいうのでありましょう。
頭でっかちでありますが、そういう存在が多かったのと、一枚のレコードを購入する
のに、本から情報を得なくては決断できなかったことが、音楽雑誌の購読につながって
いたのでしょう。
( そういえば「中南米音楽」という専門誌は、ずっとでていて、今は「ラティーナ」
と名前を変えていますが、これのもとは中南米音楽研究会でしょう。ジャズ雑誌の
老舗「スイングジャーナル」は、残念ながら、昨年に休刊してしまいましたです。
これは、音楽情報を雑誌から得る人が減ったからでありましょう。)
 ディラン、ディランといっても、60年中期までにオリジナルアルバムで聴いていた
人なんて、ほとんどいなかったのですね。先日にミュージック・マガジン編集長の
高橋修さんの文章を引用しましたが、ディランの曲が国内盤に収録されたのは、
オムニバスのなかでありますし、ディランの国内初のアルバムは、ベスト盤のような
ものですから。
 当方の世代は、「フォークソングをあなたに」の裏表紙広告をみて、これがディラン
かとは思ったのですが、このアルバムを購入することができずでした。(アルバムを
購入しても、きちんとしたレコードプレーヤーがなかったのではないかな。)
 当方よりも4年ほど年長となる北中正和さんが、マガジン追悼特集に「中村とうよう
さんを思い起こさせる一枚」として、ディランの初の国内盤をあげています。
「はじめてとうようさんの存在を知ったのはラジオでフォーク・ソングを紹介している
低音の声が印象的な評論家としてだった。そしてはじめてLPの解説を読んだのがこの
アルバムだった。複数のアルバムからの強引な編集盤だったのにはとまどったが、
最初ディランのLPの日本盤はこれしかなかったのだ。その中ではディランの音楽に
リズム&ブルース的フィーリングがあると指摘されている。当時のフォークの解説で
そんなことを書ける人は他に誰もいなかった。」
 「複数のアルバムからの強引な編集盤」に戸惑った人なんて、国内にいくらもいな
かったのはたしかであります。この編集盤は、65年の発売と思われるますが、ちょうど
この年にフォーク・ロックが話題となりはじめたのです。
 とううようさんが「フォーク・ソングをあなたに」に寄稿した「フォーク・ロックへ
の道」では次のように書いています。
「1965年アメリカ・フォーク界での最大事件はボブ・ディランの”変身”であろう。」