長谷川四郎さんが、自分のことを「山猫」というようになったのは、「ユリイカ」連
載の「山猫通信」からであるように思います。この「山猫通信」は全集に収録されて
いると思いこんでいましたら、まるで勘違いでした。
全集がでてから単行本で刊行されたのは、以下のものと「山猫の遺言」(晶文社)に
ありました。
・ 「長い長い板塀」 76年1月 河出書房
・ 「北京ベルリン物語」 76年5月 筑摩書房
・ 「よく似た人」 77年3月 筑摩書房
・ 「一つ目小僧の歌」 78年3月 青土社
・ 「山猫通信」 79年12月 青土社
・ 「九つの物語」 80年12月 青土社
・ 「長谷川四郎詩集」 82年4月 土曜美術社
・ 「ところで今は何時かね」82年11月 大和美術印刷出版
・ 「文学的回想」 83年6月 晶文社
こんなにも全集以後にでたものがあったのですね。(もちろん、すべて出た時に購入
しているのですが。)
これらの単行本に未収録のもとと、「ところで今は何時かね」収録のものをあわせて
「山猫の遺言」を作ったと、編集者の福島さんの解説にはありました。「山猫の遺言」
というのは、残された人たちが命名したのですが、「山猫」というのは、四郎さんの
本の題名として先にありです。
「山猫通信」はエッセイ集ですが、78年1月から79年12月にかけて「ユリイカ」に
連載されたものです。この当時は、脳梗塞が進行していて、けっして良い状態ではあり
ませんでした。
「山猫の遺言」の福島さんの解説には次のようにあります。
「 77年の7月から都立駒込病院への通院が始まった。駒込病院での検査の結果は、脳
の毛細血管に何カ所か血のかたまりがあり、そのために歩行障害や舌のもつれが起
こったと考えられるというものだった。
この時期(77〜78)は、しかし、執筆には支障がなかったから、仕事はそれまでと
変ることなく続けられた。
ところが、78年12月に、突然右半身を軽い麻痺に見舞われ、一時、右手、右脚が利か
なくなり、歩けず書けずの状態となった。幸いにも発作は軽く、間もなく夫人のたすけ
をかりて歩くことができるようになったが、右手に力がはいらないのでペンを持って
書くことはできないままだった。『ユリイカ』に連載中だった『山猫通信』は、これ
以後、夫人を相手の口述筆記で書き続けられた。
こんなことになっても、仕事への意欲、気力は衰えることがなかった。79年はほと
んど、『山猫通信』一本にしぼって、一日平均三枚のペースで口述を続け、毎月の連載
を中断することなく、12月号で完結した。」
山猫通信の第2章で、それまで「私」となっていたのが、唐突に「山猫」に変身します。
「 ここで山猫はマーケットへ大福餅を買いに行き、その帰るさ、狼に会った。狼は
『きょうはいろんな人に会う日だ。さっきはアリスに会いましたよ。』『アリスって、
どこのアリス?』『不思議の国のアリスだ。』『彼女、元気かね?』『ああ元気だよ。
あんたによろしく言ってたっけ。』」
この突然のシュールさも、また、長谷川四郎の世界であります。
「山猫通信」の装幀は安野光雅さんですが、この表紙よりも中の扉絵のほうが、山猫=
四郎さんらしく見えるのでした。