ジャッカ・ドフニ

 津島佑子さんの「ジャッカ・ドフニ」という作品タイトルに反応しています。
「ジャッカ・ドフニ」というのは、ウィルタ族に伝来するものを収蔵した個人の博物
館でありました。所在したのは網走市大曲というところでした。
 網走、ウィルタ族、オホーツク文化とつながると、これは司馬遼太郎さんの「街道
をゆく オホーツク街道」の世界であります。

街道をゆく 38 オホーツク街道 (朝日文庫)

街道をゆく 38 オホーツク街道 (朝日文庫)

 この本すぐにでてくるところにあるだろうかと思って、こころあたりをあたってみ
ましたところ、思いのほかすぐに見つかりました。さっそく、ひさしぶりになかを
チェックです。(読むたびに新しい発見がありそうです。)
 「オホーツク街道」で最初に「ジャッカ・ドフニ」という言葉がでてくるのは、次
のくだりです。
「五十代でなくなったゲンダーヌ(北川源太郎)という人はあかるくて活発な人柄だっ
たから、ひとびとに好かれていた。
 ウィルタの文化を守る会もできた。多くのひとびとの拠金があって、ウィルタの文化
を保存展示する小さな記念館もできた。敷地は、網走市が無償貸与した。
『資料館ジャッカ・ドフニ」
 というのが館の名である。ウィルタ語で『たくさんの物の家』という意味らしい。」
「ジャッカ・ドフニ」というのは、まずは「たくさんの物の家」ということになるので
すね。
 ゲンダーヌさんと、その妹さんが亡くなったことによって、日本からウィルタ語の語り
手はいなくなってしまったのことです。元々はこのご兄弟は樺太で生まれ育って、敗戦後
に北海道網走に移り住んでいました。
 この流れで、司馬遼太郎さんは、ウィルタ語辞典を独力でつくりあげた澗潟久治(まが
たひさはる)という方について紹介をしています。
「澗潟久治氏は函館のうまれで、函館商業学校をでた。
 この人が第一期生として入学した大阪外国語学校は、小さな学校だった。
 大正11(1922)年に創立され、大阪の天王寺区の上町台にあった小学校のふるい校舎
を国が買いとって、とりあえず使った。が、二十年後に私が入学したときも、校舎はその
ままだった(いまは箕面市に校舎をもっている。)
 すでに東京外国語学校があったので、親切のこの学校は、アジア語を特徴としてつくら
れた。・・・
 澗潟久治氏はロシア語を学ぶ科に入った。同期はわずか十四人で、大正14(1925)年
に卒業した。
 この人がなぜ南樺太に住むウィルタのような人口過少の民族のことばに関心をもったか
については、わずかに想像できる。
 そのよすがの一つとして、のちに東洋学者として不滅の名をのこすことになる
ニコライ・ネフスキーの名をあげていい。
 ネフスキーは創立早々のこの学校に招かれ、ロシア語を教えた。
 この天才の伝記については、民族学加藤九祚氏に『天の蛇』という名著がある。」
 さすがに司馬遼太郎さんでありますね。ここまでうまくつながっていくのであります。