岩波少年文庫創刊60年 7

 当方は、小学校は2つに通っていますが、どちらも農村部にある学校で、入学した
ところには4年生までいっていましたが、ここにどのような学校図書館があるのかは
記憶に残っていません。転校した学校を卒業することになるのですが、ここは都市の
近郊にある開拓地の学校という、なかなか微妙なところでした。61年頃のことです。
高度成長期にはいっていましたが、開拓地においてはそれはどこの話しというような
感じでした。この開拓地は旧満州からの引き上げ者の方が入植していたのですが、
都市の近郊に条件の良い開拓地などがあるはずもありません。山あいの平地がほとんど
なくて、米はまったくとれず、雑穀と果樹などをつくっていましたが、当方がそこに
越した時は、電力会社の電気がひかれていなくて、開拓にはいった人たちが出資して
作った小さな自家発電による電力供給で、渇水期にはほとんど懐中電灯ほどのあかり
をともすので精一杯でありました。
 逆にこのような学校の図書が充実しているというのはありうることでして、当方が
高学年になっているせいもあって、本棚にならんでいた図書のことを思い出すことが
できます。(うんと小さな学校でしたので、図書室なんてものはありませんでした。)
ここには、英語の本などもたくさんあって、それは図鑑のようなものでしたが、それが
日本語の本よりも高級に見えたものです。
 これについて、どうしてかと思っていましたら、「なつかしい本の記憶」には次の
ようにありました。中川李枝子さんと山脇百合子さんの対談からです。発言は中川
さんのものです。
「何もない学校なのに、図書室だけは一応あって、それが大きな机がたった一つ。
そこにいつも本が五、六冊のっている。読みたい人は勝手に読んで、また置いておく。
誰が係なのか知らないけど、ただ『図書室』という札が下がっている。といっても、
その部屋の入口は『美術室』で、出口が『図書室』。あとでわかったのですけど、
戦後GHQが『中学には図書室を置くべし』といったのね。それであんな間借りの中学
でも札だけはかけたのでしょう。そんな図書室でも、わたしは本が好きだから毎日
そこに寄ったのよ。」
 中川さんは、当方よりも15歳も年長ですから見ているものと、感じ方は違って
いるのでしょうが、中学校には「図書室」設置というキャンペーンをしたのは、
GHQであったのですね。
 当方が通った開拓地の小学校に、英語の本がたくさん置かれていたのは、GHQ
戦略であるようですね。「なつかしい本の記憶」となりますと、この小学校で手に
した講談社からでた(?)ルパンの作品であったり、小学校には常備のように
なっていた「まごころ」というシリーズとか、この英語でかかれた図鑑のような
ものであって、格調高い「岩波少年文庫」は、まったく記憶に残っていないので
ありました。「少年文庫』がなかったとも言い切れないのですが。