本日の朝にはすこし広島からの「平和記念式典」をTVで見ることにです。
こうした式典をあざ笑うかのようなリーダーが世界には何人もいて、次の
戦の時には、原爆を使用することをためらわないといわんばかりです。
そうであっても、やはり反原発を訴えていかなくてはいけないことです。
8月8日に丸谷才一さんの「笹まくら」がドラマ化されて放送されることも
あって、その原作を読みついでいます。その前から戦時下にいたる人びとの
動きを追った「人びとの社会戦争」も読んでいることもあり、その時代のこと
を伝える手紙などを見てみることにしました。
当方の父がずっと捨てずに残してあった、昭和10年代のはがき、封書など
でありますが、残したというのは、亡父のなにかのメッセージが込められてい
るのでありましょう。

軍事郵便は検閲されていますので、内容はまるで面白くはなく、しかも消印が
おされていないので、日付ははっきりとしません。満州国からの葉書は6年とあ
りますので、康徳6年で、日本は昭和14年のものです。
亡父は大正9(1920)年10月の生まれでありますので、満州に渡った小学校
の同級生は18歳くらいでしょうか。満州で農業をしていくための講習所のような
ところにいたようであります。小さな字でぎっしりと書かれていて、うまく読むことが
できないところもありますが、手紙のやりとりもたいへんであったでしょうから、父は
貴重な手紙と思ったのでありましょう。
それこそ、貧農の次男、三男は新天地を見つけて出ていくしかなかったのであり
ましょう。その受け皿としての満州となります。この方が、その後どうなったのかは
まったくわかっておりません。亡父の小学校の同級生で、当方が存じ上げている
方は、お一人しかいませんので、どこかで、なにかで縁が切れてしまったものと
思われます。
それと比べると、付き合いがずっと後年まで続いていたのは、教員養成所での
同期の方々でありますが、このお仲間はほとんど教員でありますので、手紙とか
文集のようなものも多く残されています。
養成所の卒業30周年を記念しての文集がありまして、これがとっても興味深い
ものです。

養成所の卒業は昭和18(1943)年でありまして、多くの同期生は、その一年後
に招集されたと書き残しています。(同期の最年長は10歳も上ともあります)
男子部と女子部からなるのですが、男子部の多くの方は、卒業後に青年学校の
教員となって、その年に徴兵検査を受け、遅くとも一年内に招集されています。
中には、このような経歴の方もいることです。
「昭和18年3月 養成所卒業
4月1日 青年学校教員となる
4月1日 札幌月寒歩兵125連隊に入営
7月 樺太 気屯に部隊全部移駐(国境から12キロ)
18年冬から19年春にかけて上敷香に居る。
昭和19年7月 樺太を去り広島宇品に転属
10月 広島を去り千島択捉島移駐
昭和20年8月 択捉島で終戦 武装解除
9月 捕虜となり、シベリアで開発の尖兵
昭和23年8月 復員 ようやく故郷の土を踏む」
さらに、この方はこのようにも書いています。
「4月1日に入営した。男であれば一度は経験しなければならない、あの
時代は当然、人のいやがる軍隊へ・・・」
「笹まくら」の主人公は、ほぼ亡父と同年で、上に軍歴を記した方は
それよりも3歳くらい年下のようでありますが、当時は「男であれば一度は
経験しなければならない」軍隊生活ですが、これを忌避するというのは、
非国民と呼ばれるのでありました。

