読むのはいつになるのか

 先日に函館で書店員をしている弟が墓参をかねて立ち寄ってくれました。

先年に確保をお願いしてありました堀江敏幸さんの新作「二月の次に七月が」

を持って来てくれました。

 大きな書店で一度手にしたことがあったのですが、厚さと文字がびっしりと

詰まっているのにめげてしまって、そのときは購入するにいたらずでした。

これはどんな話になるのだろうな。堀江さんの小説は、わりと良く読んでいるの

ですが、いつからか買ってもすぐに読むことができなくて、積読なんてことが発

生するようになっています。

 この「二月のつぎに七月に」というのが、後期高齢者となりそうな二月生ま

れと七月生まれの夫婦の、ほとんど何も起こらない淡々とした日々を描いたもの

でありましたら、それは当方の家の話でありまして、当方などは、すぐにでも読む

のですが、そんなわけないでしょう。

 とにかく読書の予定がすこし詰まっていることですので、いつになったら読み

始めるのか。先日にこの本を届けてくれた弟には、読まない本(新刊の場合)は

買わないことにしていると、見えを切ったからには、読むしかないことです。(一

応年内には読了予定ということにしておこう)

 図書館から借りている本の借り換えを忘れていまして、返却期限を過ぎて

いました。先日に借りている本を自宅近くの分館で借り換えの手続きをした

ときに、残りの本はネットを通じて明日手続きだと思いながら、それを忘れて

いたものです。

 ということは、これらの本は、もう何日も手にしていないということになりま

す。うちの一冊は、この場で借りたことを話題にもしていないか。

 ひどく読むのが大変になっている笙野頼子さんの昨年にでた著作です。

 当方にとってなんとなくわかるのは、次のようなくだりであります。

「私は運と努力と周囲の支えだけで作家を続けてきたへんくつ者である。

つまりは売れてもいないし有名でもなく、学識もコネもない。容貌について

は言うまでもない。その上に、出発点から既に文壇とずっと不仲でいるしか

ないという弱点もあった。でもそれ故に昔から悪意はなくてもいつも自由に

事実を書き、幸福でいられた。会ったこともない偉い人(思想とかマスコミ)

たちのカンに障っていた。時にはその偉い人たちを神聖視している若い

編集者等に憎悪された。故に、今後もずっと幸福に、自分の主人でいさせ

て貰う(これ結論)。」

 まるで頭がついていかないのは、一番最初のところでことわり書きして

いる次のところ。

「長年の読者なら慣れているだろうが、私は今でもメガ自由貿易、売買春

の合法化等を批判(予言)してきた。ここに本作、今回はジェンダー主義と

性自認至上主義と言われるキリストカルト・新世紀植民地主義への批判

が新たに加わっている。文学読者にとっては大変判りにくい話である。

とはいえ、新世紀から私はこのようなグローバル化=世界勢力と戦って

きて、目の前の日常を描く事により、読む人々に大統領をも脅かす怖い

ものの正体を『幻視』させてきた。・・・今、その巨大さと醜悪さに武者震い

が止まらない。」

 たぶん、文学業界では笙野さんにはあぶない文筆家というレッテルが

貼られているのでありましょうね。ここのところは鳥影社から新刊がでて

いるのですが、この次はあるのだろうか。とりあえず、我慢強く待って

みることにいたしましょう。