昨日に引き続き「立身苦学出世」を手にしています。
著者の竹内洋さんは1942(昭和17)年の生まれとありますので、当方より
も9歳くらい年長となりです。この本の中で、竹内さんは、次のように書いてい
ます。
「私の受験時代は昭和34年ころだった。むろん戦後である。しかし私のみると
ころでは受験的生活世界に関しては昭和40年代まではほとんど戦前と同じ
だった。学校制度の大幅な変更や、入試問題に客観方式が取り入れられる
というような、制度上の大きな変化はあったが、受験的生活世界そのものに
関しては戦前と戦後の大きな断絶はなかった。受験体験談は戦前と同じく
努力と勤勉が主調音であった。そのことが受験的生活世界の戦前と戦後の
ある時期までの連続性をなによりも証明している。
それだけではない。参考書もほとんど戦前の人気参考書が使われていた。」
「戦前の人気参考書」の名前がこのあとに列挙されているのですが、当方が
使ったかどうかは別にして、このような参考書を手にしたことがありました。
竹内さんは、大正期から戦前の受験生の体験記などを調査した結果、受験
物語は、次のようなものだと言っています。
「受験準備の世界とは努力と勤勉の世界である。苦労しない怠け者は受験生
ではない。だから受験滑稽譚にでてくるトリックスターの名前は『怠雄』である。
快楽は努力と勤勉の世界を汚すものだから徹底的に排除される。快楽につな
がるものは『誘惑』として危険視された。」
そうはいっても受験がうまくいかないこともあるでしょうね。
「明治30年代の入学試験の激化によってすでに志願者の間には、とにかく
どこかの学校に潜り込みたいという風潮も生じていた。当時の記事はそういう
傾向を『何にでも這入りさへすれば主義』と名づけている。・・・
第一志望 一高、第二志望 東京高工あるいは東京高商。いずれも不合格
になると、水産講習所というコース。・・・さらに一高浪人たちが諦めて『落ちて
行く先』は外語、商船学校、慶応、早稲田だった。」
戦前の昭和になりますと受験生が飛躍的に多くなっていますので、受験滑稽
譚につながる話は多くあったようであります。
旧制高校に入ってから怠けて退学というのはまだよしとして、困ったのは
何浪かしても旧制高校に合格しない時ですね。どのくらいで、見切りをつけて
「落ちて行く先」に入学するかです。
これで、すぐに頭に浮かぶのは、安岡章太郎と悪い仲間のことです。安岡は
小説にも書いているのですが、自伝的な著作「僕の昭和史」をのぞいてみる
ことにします。
「中学5年の夏休みがおわって、クラスのほとんど全員が受験勉強に血まなこに
なっているというのに、僕は相変わらず鞄のなかに映画雑誌をつめこんで、教科
書や参考書にはまるっきり見向きもしなかった。学校のかえりに本屋で、『キネマ
旬報』を買うつもりで、
『旬報をくれ』
といったら、店員が心得顔に『受験旬報』をよこしたことがあった、そのときは、
さすがに多少、自分の生活態度を反省した。しかし僕の考えでは、どうせ今から
勉強したって三月の受験には間に合いっこない、浪人一年は覚悟のうえだから、
中学卒業するまで、あとの半年間は徹底的に遊ぶことにしょうというのであった。」
結局は、四国の松山高校を受験し、予定とおり不合格になって、受験の名門で
ある城北高等補習学校に通うことになるのですが、そこで出会った悪い仲間と
遊ぶことになり、翌年以降も高校を落ち続けることになります。
おかげで、安岡さん小説家となることができたともいえるので、人生はどう転ぶ
かわからないものです。

