25年たって文庫化

 そういえば先日に行きつけの書店へといったときに坪内祐三さんの

新刊文庫を手にしました。このところ、書店で坪内さんの新刊を見ることが

すくないので、思わずまじまじとみることにです。

 講談社文芸文庫から坪内さん2001年文藝春秋社「文学を探せ」でたの

であります。文芸文庫でありますので内容もですが、付録が魅力的なのです

ね。平山周吉さん(元文藝春秋社編集者ありました。)の解説と佐久間文子

さん(もちろん「ツボちゃんの話」の著者による年譜)でありますよ。

 元版を持っていなかったら、これは買うかな(ということは、手にした時には

持っていないことはないと思いながら、確証が得られなかったのですね。)と

思いました。

 帰宅してから元版を探すことになったのですが、当方としては珍しくすぐに

見つけ出すことができました。買った時にさーっと読んで、その後読み返すこと

もなしで、この場で話題とすることもなかったようであります。

 坪内さんの著作は、最初の一冊からアメリカ文学ものとか軽い読み物などを

のぞくとそれなりに購入しているのですが、「文庫本福袋」の路線が一番すきで

ありまして、「文学を探せ」などは、あることも忘れてしまっておりました。

 それで早速に開いてみたのですが、最初の章は「中上健次の不在から、話は」

とありまして、次の章は「あいまいな日本の『私小説』」がテーマになっています。

なるほど、これが1999年の坪内さんの問題意識でありますか。

「文学の世界に、中上以前中上以降という言い方が出来るかもしれない。小林

以前小林以降、あるいは三島以前三島以降という言い方が出来るように。

 恐ろしい視線が消えて人は弛緩する。

 この人物に読まれていると思うと、人は、その人物が自分と相反する文学観の

持ち主であっても、いや相反する文学観の持ち主であればなおさら、いい加減な

ことを言葉に書きあらわすことができない。自分のインチキぶりが見抜かれてし

まうから。・・・・・

 朝日新人文学賞太宰治賞を受賞した彼らのような非作家的感受性の持ち

主たちが、平成文学を形成して行くのなら、私は、平成文学に少しも関心は持て

ない。」

 最初のところで、中上健次の不在を嘆いているのでありますが、ここで非作家

的感受性の持ち主と言われている新人さんたちは、見事にあとが続かなかった

ようであります。

 坪内さんが期待した新人は、これからまもなく登場するのでありますが、最初

から彼を推していた坪内さんは、彼のことを本物の作家と思ったのでありましょ

う。上に引用の文章は1999年で単行本となったのは、2001年のことで、「文學

界」で西村賢太さんの小説を目にするのは2004年のことになりです。