本日も「海鳴り」から

 昨日に引き続きで編集工房ノア「海鳴り」37号から話題をいただくことにです。

この号には、散文だけでも8本ほど掲載されていますので、一日一本話題にしま

したら一週間くらいは続けることができそうであります。

 本日は、この中から定道明さんの「沓掛山荘訪問記」を読んで見ることにです。

ノア「海鳴り」の読者の方は、年齢が高いと思われますので、「沓掛山荘」とある

のを目にしましたら、これは中野重治さんの夏の家を訪ねる話であるなとおわかり

になる人もいるのでしょう。

 中野重治さんを尊敬をもって読んでいた人たちは、すくなくとも80代になって

いるはずでありますが、これを書かれた定さんは1940年生まれとありました。

 沓掛と目にして沓掛時次郎なんてのが頭に浮かぶ人はもっとすくないか。この

時次郎さんから派生してあんかけの時次郎さん(あたりまえだのクラッカー)が

でてくるのですが、今は昔の話。

中野重治は戦後長く沓掛の雑木林の中に住んで『沓掛筆記』を書いた。

沓掛とは今日人々の言う中軽井沢の古名である。この標題はみだりに土地の名を

変更する世相への批判を含意するだろう。沓掛という地名には歴史があり、中軽井

沢という名には、役人の浅はかな思いつき以外の何ものもない。『中軽井沢筆記』

と書かずに『沓掛筆記』書くのは、中野重治が文学者だったからである。」

 このように書いているのは加藤周一さんでありまして、「高原好日」のなかに

ありましたです。「夏になると私は信濃追分でしばしば堀辰雄を訪ね、折にふれて

沓掛に中野重治を訪ねた。」

 プロレタリア文学者が軽井沢に別荘を持つのかという批判はあったのでしょう

が、中野重治の山荘は、当時ひどく不便なところにあって、軽井沢ではなく沓掛で、

かなり安く土地を確保することができたとのことです。

「沓掛の駅の観光案内所の説明では、上ノ原少年自然の家からすこし行った所を

左折すれば、その突き当りに、中野の山荘があることになっていた。地図にそんな

ふうに出ていたのである。・・

 上ノ原の地図を教えてくれたのは油屋の主人であった。

『あの辺は低地でしてね、安かったのです。土地を紹介したのは私でした。」

 彼は、気安さの余りに、私にそんなことも言ってくれた。

 たしかに、現地に立ってみると、中野山荘のあたりは低地に見えた。中野山荘の

上にも一軒、下は坪井繁治、栄夫妻の山荘ということであった。」

 まだ自分が若かったころに訪ねてみた中野山荘を、八十を超える年齢になって

から親子ほども若い教え子のサポートを受けて、再び中野山荘を訪問するのに、

悪戦苦闘するという話で、中野重治の磁場の強さであります。