「図書」10月号から

 本日に「図書」10月号が届きました。

 手にして目次を見ていましたら、次のタイトルが目に入りました。「祖父の

フハイカ」(上) 田中友子とありました。これはなんであろうかと、本文を

見ましたら、副題に「共に生きた順子と五郎」とあるではないですか、という

ことは、祖父というのは、あの小川五郎さんでありますか。本文をみましたら、

すぐに次のようにありましたです。

高杉一郎の筆名で知られた私の祖父、小川五郎は、そのフハイカを着て過ごし

た四年半にわたる捕虜生活の記録を、1950年に『極光のかげに シベリア

俘虜記』というタイトルで出版した。」

 この文章は、高杉一郎さんのお孫さんによる祖父母についてのものとなります

が、タイトルにあるように祖母「順子」さんのほうに力点をおいてのものである

ようです。

 明治生まれの自立した女性である順子さんという方が、高杉一郎さんのパート

ナーであったということを知ってもらいたいということですね。

「五年ものあいだ夫の還りを待ちつづけた祖母は、帰国したばかりの夫に一年は

働かないでゆっくり休むように言い渡したのだった。・・・・長旅を終えて帰国

した夫に休養の時を与えた祖母というペネロペがいなかったら、もしかすると

祖父の俘虜記は生まれなかったかもしれない。」  

 そうなんだろうと思うな、なまじインテリでロシア語ができたことから、抑留

が長くなってしまい、帰国は1949年9月でありますからね。

 当方のことでありますからして、これで思いだすのは長谷川四郎夫人のことで

ありますね。長谷川四郎さんも抑留されて帰還したのは1950年2月でして、

夫人は、「アメリカ軍人家庭のメイド募集の広告を新聞で見て、乗り気になった。

英語学校で勉強したことがあるので、すこし会話ができた。それで、皆の反対を

押し切って、試験を受けた。」(福島紀幸さんの「長谷川四郎物語」から)

この試験に受かって将校宅に住み込みでメイドさんをして生活をしていました。

このメイドは、四郎さんの帰還後も続くことになりました。

 ということで、当方はこの文章を読んでいましたら、ついつい「順子とせい子」

という具合に、長々と抑留されていた夫不在の間に、自分の能力を生かして家庭を

維持した二人の女性のことを並べて読んでみることになりです。

 この田中友子さんの文章は、次号にも続くのでありましょうから、楽しみは来月

に続くであります。

 当方のなかでは高杉一郎長谷川四郎というのは特別な存在でありまして、あち

こちで言及しているのですが、田中友子さんの名前に言及しているのは、まるで

思ってもみない本のなかに登場したからでありまして、それは行司千絵さんの

友人としてでありました。(そういえば、田中友子さんの文章は、高杉一郎

さんの追想集で読んでおりました。)

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