二週間ははやい

 図書館から借りている本の一部は返却期限をむかえました。二週間というのは

長いようでありますが、本を借りているとあっという間であります。特に読めて

いないものに関しては。

 返却期限を迎えた大物は「周作人自伝」でありまして、これは興味のあるとこ

ろだけをつまみ読みしようと思っているのですが、これもさっぱりです。

これまでのところでのぞいてみてみたのは、周作人が日本に留学時代の下宿につ

いて書かれているところでした。

 周作人が留学で日本に来たのは1906(明治39)年のことのようです。

菊富士ホテルは1914(大正3)年創業ですから、周作人が来たときにはまだ

菊富士ホテルはなかったことになりますね。

 周作人の東京での下宿屋についての記述です。

「私は最初東京に来て、伏見館という下宿屋に住んだ。伏見館は東京の本郷湯島

二丁目にある、中の下の下宿屋だ。といっても別になにか根拠があってではなく、

自分で勝手にそう値踏みしたまでである。もともと下宿屋は一月いくらで部屋代

と食事代を計算し、一日いくらで計算する旅館と同じでなく、そこが最大の違い

だ。下宿屋それ自体の等級にいたってはピンからキリまであり、大きいのは三、

四階もある建物で、使用人も多い。旅館とそうした点は様子が似ている。」

 周作人は伏見館では「部屋代と食事代は毎月十元をでなかった」と書いていま

す。十元とはどのくらいであるのかわかりませんが、「留学経費として支給され

る金はたいへんすくなく、国立大学に進学すると毎年日本で五百円。専門学校は

四百五十円、それ以外の学校だろ一律四百円、月に三十三円もらった。これでは

はなはだ手元不如意」と記されています。

 瀬戸内さんの「鬼の栖」で書かれている菊富士ホテルの下宿料の話であります。

「うちは下宿代が高いのでも有名でした。まわりが二十三、四円の時、四十四、

五円いただいていましたから。」

 ということで、高級下宿屋といわれ、一番上にランクする下宿屋である菊富士は

平均の倍ほどのお金がかかったのでありますね。月に三十三円の留学支給金では、

とうてい菊富士に住まうことはできないことです。

「伏見館は、部屋数が少なくて、住人は十人に満たず、しかも多くは岩倉鉄道の学

生で、志がごく低いため、魯迅に見くびられてはいたが、勉強には身を入れ、終日

学校へ行っていて、夜も静かだったから、しばらくは一緒にいられたのである。」

 下宿というイメージからは、伏見館のほうが標準的なものであるようです。

 それにしても、高級下宿屋に金も払わずに住み続けるというのは、どういう神経

なのでありましょうと、大杉栄のことを思ってしまうことです。