明日はすこしゆっくりと

 お天気よろしの日が続き、この週末は東奔西走でバラ見物でありましたが、

これは本日までで、明日はすこしゆっくりとすることにします。

 本日の当地の気温は21.7度で、これでもこのまちとしては気温があがったくら

いで、バラの開花がすこし進みました。これの積み重ねでありますね。

 新聞の読書欄は、大見出しを見るくらいで、中をちゃんとチェックすることが

できておりませんです。これはいかんことでして、本もまるで読むことができて

いない。

 とはいっても、26日付けの朝日読書欄「ひもとく 追悼・澤田隆治さん」は

話題にしなくてはです。

 当方の子どもの頃は、テレビのお笑い系ドラマというと「お笑い三人組」な

NHKが制作のものを除くと、関西のものが中心でありまして、そのころは、

これが大阪で作られていたとは、意識もせずです。当時は、人気ドラマも含めて

関西の放送局が制作したものが支持を集めていましたからね。

 関西の芸人たちが東京のほうへと活動の場を移すことになったのは、関西で

制作することが少なくなったからと言われていますが、それはとりもなおさず

澤田隆治さんが制作会社をおこして、それが東京で番組をつくるようになった

からと言われてくらいです。

 というように関西放送界としては、澤田隆治さんの東征をとめるべきであった

のでしょうね。(司馬遼太郎さんが最後まで東大阪を本拠地としていたように)

 澤田隆治さんについて、この「ひもとく」での筆者は、なんと大島幹雄さん

でありました。誰が適当なのだろうか、ほとんど思いあたる人がいないので

ありますが、それでも大島幹雄さんというのは意外感ありです。(意外な感じを

受けないのは吉本興業につながっているような人ですね。)

 しかし、この大島幹雄さんの澤田さんの仕事を通じての追悼は、とてもよく

できておりまして、これは切り抜きをしなくてはと思いましたです。大島さん

が書いている本の話については、当方もすこしはわかるところがあるのですが、

大島さんが紹介する次のところは、まるで知らないエピソードでありました。

「大学時代は故・脇田晴子と共に日本史の高尾一彦教授の指導を受け、淡路島

の蔵に眠っていた古文書調査をする。この時書いた卒論『淡路における請山制

山林経営』は『兵庫県史』に所収されたことからもわかるように、澤田さんの

歴史研究は筋金入りだった。愛する喜劇を歴史に残そうと、番組づくりの激務

の中、書き続けた。」

 澤田さんは個性的でだめな喜劇人についてもずいぶんと書き残していて、制作

の視点からの喜劇人の評伝は、小林信彦さんのものとは色合いが違って、これ

も貴重なものです。

 大島さんも「小林信彦の名著『定本 日本の喜劇人』で二行しか紹介されて

いない幻の喜劇人の足跡を、ゼロから追う。」と書いています。

澤田さんの仕事のユニークなところですね。

  

 

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