いくらなんでも

 図書館から借りている本は、開館となったにもかかわらず返却せずであり

まして、これはいくらなんでもひどいことです。

長い休みの後は、どっと返却があって、それの処理が大変と思ったので、すこ

し返却を遅らせましたというのは、勝手な言い訳でありますね。

 ということで、久しぶりで図書館へと行き、カウンターで返却と借り出しの

手続きをすることになりです。

 このところあまり読むことができなくなっているところにもって、長編小説

に取り組んでいますので、図書館から借りる本はすこし減らし、読むことがで

きそうもないものは借りないことにしました。

 そういうわけで、借りた本は三冊となり、つまみ読みを続けることにしました。

新たに借りたのは、次の二冊です。 

  百鬼園先生の全集(講談社・福武)と福武文庫の解説をまとめたものとあり

です。

 当方は百鬼園先生の全集は、最初にでた講談社版が新刊ででたときに購入しま

した。この本で刊行年を確認しましたら、1971年から73年のこととありま

すので、当方は学生でありましたか。まったくじじむさく贅沢な貧乏学生であっ

たことです。

 どうして百鬼園先生のことを知っていたかといえば、どこかで記しているかと

思いますが、高校生のときに下宿していたときに、単身赴任で住んでらしたおじ

さんが「小説新潮」を購読していて、それは読み終えると捨てられていて、それ

を拾ってきては、「百鬼園随筆」を読んでいたのです。まあ、なんとも偏屈なこ

とでありまする。

 結局のところ、当方の手元に残っているのは旺文社文庫版と講談社版全集とな

りです。もちろんどちらも旧かな表記であります。

 福武文庫版からは、新仮名づかいとしたのですが、これについての平山三郎

さんのコメントも、この本にはのっておりました。

「今年は、百閒の生誕百年にあたる。これを機にして、著作権者の遺族に乞うて、

文庫に限り、新漢字、新仮名づかいにしていただくことにした。ただし特殊なま

たは一部の漢字だけは、百閒文章の特異性、内容、雰囲気、その機微を損ねまい

として残し、ルビをつけた。

 遺族の方ばかりでなく、不肖の弟子の私とても、生前の師を思えば、旧漢字、

旧仮名づかいを守り抜きたい気持ちである。しかし戦後の漢字、仮名づかいの

変遷は急速であって、それに慣れた青少年の人たちにも、できるだけ多く百閒

独特の名作に接していただきたいのである。」

 福武文庫版の百閒文庫シリーズが刊行されたのは、1989年12月だそう

です。このシリーズも旺文社文庫と同じで田村義也さんの装丁でありまして、

いま考えると、このシリーズを買わなかったのは不思議でありますが、やはり

旧漢字、旧仮名でないことに抵抗があったのでありましょう。