先日まで磯崎憲一郎さんの「日本蒙昧前史」を読んでいたことで、「蒙昧」
ということばが気になってしょうがないことです。
もちろんあまり褒めたときに使う言葉ではないのですよね。磯崎さんは、
マスコミが人々の知る権利に応えるかたちで、報道を加熱させて、それが
人々の「蒙昧への道」に一役かっているといいたかったのかな。
そうした「蒙昧への道」というのは、日本の敗戦後の高度成長の道のりと
双子のようなものと思っているのでしょう。
このところの報道を見ていましたら、「どうして夫は自殺することになっ
たのか真実を教えてほしい」というような文字が目に入るのですが、そもそも
どこにも「真実」とか「責任」というのが溶けてなくなってしまっていますの
で、これを見出すのは考古学のような手法が必要なのかもしれません。
コロナをめぐるいわゆるワイドショーは、まったく見たことがないことも
あって、最近、この方をTVでよく見かけますというように紹介される人は、
ほとんど見たことのない人ですが、こういう番組に対して、最近はだれが真面
目に批評しているのだろうと思うことです。
その昔ならナンシー関さんがいたのですよ。本日たまたま「聞いて極楽」と
いうナンシーさんの文庫本を手にしていたのですが、ナンシーさんはほんと
インテリからすると見るに足らないというような番組を心血を注いで見続けて、
コラムを残しているのです。
「いまさらこれを言っても意味ないのかもしれないが、地下鉄サリン事件につい
ては、だれも逮捕も起訴もされていたのである。『でもオウムだよ』というの
だろうけど、それを軸にするのは『報道』ではなくて『ワイドショー』だ。・・
こないだの『横浜港母子殺人事件』で、まだダンナが逮捕される前なのに、
全国民が見事に共通して『ダンナが殺った』と思っていた状態のときの、あの
変な感じ。テレビ(ワイドショー)を媒介として成立していた、妙な連帯感。
今回は状況も事件の性質も違うが、でもこの『妙な連帯感」をまた感じる。
いや、今回は『口に出しちゃいけない』というしばりがないのである。・・
絶対的悪(もしくは敵)を憎む快感(これはワイドショーの開発した人間の
快楽のツボの一つである)の共有による連帯感の強化だと思う。」
ナンシーさんのコラムは週刊朝日のもので、上にひいたのは、1995年4月19
日の「ニュース23」に取り上げられていたオウム真理教のスポークスマンの
発言を目にしての文章となります。
それにしても、ほんと「いつも心にナンシーを」であります。

