野溝七生子というひと 2

 野溝七生子さんは1897年生まれとありますので、ほぼ当方の祖母の

世代であります。大分の高等女学校をでたあとに同志社女学校英文科を

終えて、そのあと女性の受け入れを行っていた数少ない大学であった

東洋大学を卒業して小説家デビューすることになります。

 卒業した東洋大学に迎えられたのは1951年、54歳の時でありました。

この世代の女性としては、トップランナーのようなところがありですが、

男性と比べた時に、ずいぶんと遠回りを強いられていることです。

(本当に戦前の日本においては、女性を受け入れる帝国大学なんて異例

のことでしたからね。東北帝大に大正時代に受け入れがありましたが、

寿岳章子さんが東北帝大を卒業というのは、この流れですね。)

 どちらにしても、野溝さんは後に続く女性たちにとって導きの星

一人であったのでしょう。パートナーとのDINKS生活というのも、明治

の女性としてはすすんでいることで、男性に従属して日陰の女なんて

呼ばれるのが一般的なときにです。

 そうした生き方もあってでしょうか、晩年になって野溝さんには思わ

ぬ事態に巻き込まれることになったと、矢川さんは書いています。

野溝七生子の名がふたたびマス・コミに取り沙汰されるようになった

のは、最晩年のことである。1982(昭和57)年、ある雑誌に連載中の

A女史の大杉栄評伝に、六月号と十月号の二度にわたり、辻潤をめぐる

女性たちのひとりとして、野溝七生子が登場してきたのだった。

 のちにまとめられた単行本では大幅に削除がほどこされており、ただ

辻潤比叡山で知りあって『命がけで惚れた永遠の女性』とあるだけで

氏名も明らかにされてはいない。A女史は六月号の発表直後に自分の杜撰

さに気づき、早速十月号で全面的に陳謝したのだけれども、もはや相手に

は通じなかった。

 長年の文学史研究で野溝七生子は、いいかげんな実名小説が史実を歪曲

することの危険を告発しつづけてきたのだった。それが、このたびは他人

事ならず、まさしくわが身の上に起こったのである。

 『戦うべきものができた、久々に生き甲斐が湧いてきた』とまでいい

きったあのときの野溝七生子の、一種すがすがしい怒りの表情をいまだに

わたしはわすれない。」

 このA女史に対して、どのような戦いをしかけたのかはわかっておりま

せんが、A女史は野溝さんに謝罪をすることになって、表面的には収まっ

たのでありましょうが、これからまもなく野溝さんは精神に変調をきたし

て、それまでひとり暮らしをしていたホテルから、病院へと移ることに

なったとのことです。

 大杉栄の評伝を書いたA女史といえば、もちろんあの人しか思いつかな

いことであり。検索をかけましたら、やはりあの人のようです。

 矢川さんもA女史のことを許せなかったのだろうなと思うことで。