古山高麗雄さんのことをおもいながら草森紳一さんの「記憶のちぎれ雲」
の古山さんについてのところを読むことになりです。
草森さんの文章の後半は、「人生、しょせん運不運」が話題となるのですが、
昨日はその本が見つからず、本日に再度探してみましたら「日光甚五郎煎餅」
の包装紙でカバーがかかっていて、背表紙が見えなくなっていました。
なんとか見つかりましたので、「記憶のちぎれ雲」と「人生、しょせん運不
運」をあわせて読むことにです。
草森さんは、次のように書いています。文章を端折ってつなぎあわせてい
ます。
「私は、どうして古山高麗雄氏の性格形成に関心をもって、かくもあれこれ
思いをめぐらしているのだろうか。それは、やはり初対面の印象が強烈だっ
たからにほかならない。・・
私にとっての古山高麗雄氏は、たった二、三度あったきりで、『付合い』
にまで到らなかったが、重要な出会いをしているのである。だから書いて
いるのだ。」
「付合い」があるかないかではなくて、「重要な出会い」のほうを重視す
るのでありますね。この人と出会わなければ、このような形にはなっていな
かっただろうと思うことがあります。仕事で出会う人間関係などには、そう
いうところがありまして、ほとんど親しくなることもなかった上役のおかげ
で、違った方面の道が開けたなんてことは、普通にありますでしょう。
浅い付合いであった人の葬儀には行かなくともいいかと思うのに、自分に
とって重要な出会いだったと思う人の葬儀には律儀に足を運んだりでありま
す。このような意味で、草森さんの書くところがよくわかります。
草森さんは、古山さんの次の言葉を引用しています。
「人は、その生涯中に、いつ誰と出会い、どんな付合いをするかということ
の方が問題です。」
古山さんが、「悪い仲間」であった倉田さんとの出会いから、倉田さんの
重要な出会いについて、小説に書くことになったのでありましょう。
夏のこの時期に読むものとして、古山さんの著作はぴったりであるのかもし
れません。