図書館で目に入ってきた本に「人殺しの花」というのがありました。
「政治空間における象徴的コミュニケーションの不透明性」という文字が
タイトルに添えられていました。なかをすこしのぞいてみて、読めるかなと
思いながらも借りてくることになりです。
名前は見たことがあるように思うのですが、この方の本を読んだことはなし
です。若くしてUSAの大学に渡って研究を続けていて、現在はアメリカ学士院の
正会員ということですから、業績に比して日本での知名度が低いのは、日本の
コマーシャリズムにのっていないからでありましょう。(その昔に読んで阿部良
雄さんの「西欧との対話」には、フランスの研究者であっても、オクスフォード
などを活動拠点に移すと、フランスでは軽視されてしまうというようなことが
書かれていましたが、これは日本でも同じなんでありましょう。)
この本の帯には、「なぜ美しい桜やバラは、自らの命を大義のために捧げる
ことを強いるプロパガンダの道具になったのか」とあります。
日本の桜の花については30ページほどでありまして、これで神話時代から20
世紀の敗戦に至るまでの桜の象徴としての意味の多義性について説明をしている
のですが、そこにあった印象に残るくだり。
「桜の意味は、花咲く桜という象徴から散る桜へ変容し、日本人/日本人兵士の
命を犠牲にすることへと変容したが、その過程で重要な役割を担ったのが靖国
神社である。」
なるほどでありまして、これは何度か読んでみなくてはいけませんです。
日本が桜の花でありましたが、西欧ではバラでありまして、この文章の要約の
結語のところを引用です。
「ヨーロッパにおけるバラの象徴体系は、日本における(桜の)象徴体系との
顕著な並行性があることが分かる。すなわち多義性によって、バラも桜も
スペクトルの一方の端から他方の端へと意味が流動的に転移することが起こり
やすくなっているのだ。そしてこの流動性によって、それらの花が人殺しの花に
なることを可能にした。この多義性は、すべりやすい斜面のバラの意味が滑落
していったことを人々が認識するのを妨げ、それが彼ら自身の破壊へと帰結し
たのである。」
一読してわかるようなわからないようなですが、多義性、意味の流動と転移
によって花は、人殺しの花となるのですね。
赤瀬川さんの櫻画報の桜と、靖国神社の桜の意味合いにはずいぶんと違うものが
ありますからね。