NHKの番組宣伝を見ていましたら草彅剛さんが進行する番組で「最後の」
というのがスタートするとありました。
番組のホームページには、次のようにあります。
「昭和・平成の時代に、私たちの日常にありふれていた『当たり前のモノ』
が、令和のいま、絶滅の危機に瀕している──
日本で、世界で、唯一その工場でしか作れない『製品』、その職人にのみ
受け継がれた「技術」、地域で愛され続けた『味』──。」
明治までは普通にあったものが、昭和に消えたというものも多いでしょう
が、それはおいておくとして、当方が子どもの頃には、めずらしくなかった
ものが、いまでは地域から姿を消していて、日本でも姿を消しつつあると
いうことに気がつく、今日このごろであります。
たとえば、当方の子どもの頃は運搬というと農村ではトラックよりも馬を
利用してというのが一般的でありまして、農家さんには必ず馬が飼われてい
ましたので、その関連の産業というのが普通にありました。今でいうと、
トラックの販売店、修理店、周辺機器の販売というのが普通にあるように、
馬についてもそのようなお店がありました。馬具やさん、蹄鉄やさん、それ
に馬車の修理をするようなお店。
北海道の日高にかけては競走馬の生産が盛んですので、その関連の馬具は
売られていますが、その昔の農耕馬向けのものとはちょっと雰囲気が違い
ます。蹄鉄やさんというのも農村には必ずありました。
このようなことを思ったのは、図書館から借りている「刃物たるべく」を
読んでいるからであります。この本のサブタイトルは「職人の昭和」であり
ます。
著者は、三軒茶屋の道具屋「土田刃物店」三代目当主です。昭和の名人た
ちが作った道具を、それを使うにふさわしい職人たちに引き継いでいくこと
を生業にしているのですが、現在ではそんな道具を必要とする職人が少なく
なっていることが、この本からはうかがえます。
それ以上に、道具に関わる職人さんの仕事ぶりに変化があることも思い
知らされます。
ということで、その代表的な仕事としてあげられているのは、のこぎりの
目立てのことです。
「のみや鉋と違って、鋸の再研磨は使用者自身がやるものではないという
のが一般的で、目立屋に頼る方法が古くからの常識でした。当方も祖父の
時代から目立をしながら道具屋を経営してゆく形態でした。またその形態の
商店には元鋸鍛冶という経歴の者がたくさんいました。
明治以降、木工刃物、大工道具の生産を、産地化してゆき新潟の三条市や
与板町、脇野町にまかせてゆく首都の鋸鍛冶達は仕事を失ってゆきます。
徳川末期から明治中頃までは日本で最も優秀な鋸製作技術を持つ、いわゆる
名工がひしめいていた首都も、生産に専念し近代化していった産地に淘汰
されてゆきます。
安価で充分使用に耐えるものが大量に生産されるシステムに、名工の技術
は対峙すべくもなかったのです。そして有する技術のうち、鋸を目立する
技術を生かして、人口の多い地で、目立仕事も請け負う大工道具屋となって
いったのでしょう。」
電動工具が入る前は、すべて手作業でありました。当方の住む町にも
営林署があって、材木切り出しなどをする業者さんがいましたので、その
昔はまちなかに鋸目立という看板をあげていた店がありました。いつの間に
かその看板を見かけなくなっていますので、今市内では鋸目立という職人
さんはいなくなっているのかな。